多摩丘陵の古道と硬化面……1 町田市野津田の丘の古道跡
多摩丘陵の古道と硬化面……2 野津田の華厳院坂掘割状遺構…1. 2. 3
多摩丘陵町田市小山田の代官坂 晩秋の七国山・落葉の絨毯
多摩丘陵・町田市小山田の古道地図

晩秋の七国山・落葉の絨毯……1. 2. 3.

七国山の北麓から山頂へ向かう推定鎌倉街道上道本路
古道散策で一番良い季節は晩秋から初冬だと思います。その古道散策絶好の季節に町田市七国山の鎌倉街道跡を北から南へ歩いてみました。上の写真は七国山北麓の鎌倉街道跡に入った付近です。道は一面の枯葉の絨毯となっていました。七国山北側の古道跡の一帯は、クヌギやコナラ林になっていて、晩秋から初冬にかけては、ご覧のような景観になっていたのです。

七国山北麓の古道跡
最近になって七国山の北麓では新たに宅地が造成されていて、私が初めてこの七国山を訪れた5年前(平成13年)とは、その景観がずいぶんと変わってしまいました。その僅か5年の間に各地の鎌倉街道跡は次々と消えてゆき寂しい気持ちになっていました。鎌倉街道の歴史景観保全が、それぞれの自治体にとっては経済的効果が薄い為か保全に積極的にはなれないもののようです。また保全はかえって経済活動の妨げになり、鎌倉街道はやっかいものとさえ思われるところもあるのかも知れません。

上の写真は鎌倉街道跡の散策路が山頂から下りてきた場所で、ここから散策路は左に折れるのですが、写真はそのまま直進する方向を撮影したものです。そこには古道跡と思われる細長い平場が、その先にも直進で続いているのがわかります。

七国山北麓の古道跡
山頂からの散策路が左に折れるところから、数十メートル山頂方面へ進んで振り向いて見たのが上の写真です。古道跡の道は真っ直ぐに続いていますが、竹垣が道を塞いでいて、通行者は左に折れて進むように誘導されます。この左に折れる道が鎌倉街道とは思われませんが便宜上そちらに迂回することになります。写真の散策路の路面の平場と、道の左側の土塁状の壁は、竹垣の中へも同じように続いているので、かっての鎌倉街道は直進していたのかも知れません。

七国山の北麓に残る掘割状の道
上の写真は七国山山頂へ向かう古道跡と伝わる道です。この写真の付近から、道の東側(写真の左手)にも土塁状の高まりが残されています。この林の中の道は、武蔵府中から鎌倉へ向かう鎌倉街道上道ルートに残された貴重な道路遺構なのです。

七国山の北麓に残るV字形の掘割道
七国山の北側の野津田では鎌倉街道の発掘調査(野津田上の原遺跡)が行われていますが、この七国山の北側に残る古道跡での発掘調査は行われていないようです。しかし、写真のようなV字形の掘割道は、ここが古道遺構であることをうかがわせるものです。このV字形(専門用語では薬研堀といいます)の掘割地形は、野津田上の原遺跡の調査で、地中から発見された道路遺構と大変によく似ているものです。

七国山の北麓に残るV字形の掘割道
上の写真は今歩いてきた方向を振り向いて撮影したものです。路面には落葉が厚く堆積しています。V字形の掘割底の道幅は1.5メートル位です。近年では鎌倉街道の道幅はその研究から4〜6メートル位あったといわれています。それならばここの道幅は鎌倉街道としては狭すぎるように思います。果たして写真の道は鎌倉街道跡ということができるのでしょうか。

七国山北麓の掘割道を土塁上から見る

上の写真は掘割道の土塁上に上がって撮影したものです。土塁上から見てみると掘割壁の幅は一定に整っていて、まるで城郭遺構の堀のようです。このようにして見てみると、この道が人工的なものであり、人馬の走行で削られたものでないことが想像できるのです。

さて古道の道幅はどのようにして決められているのか、それが決まった基準が無いのです。例えは発掘された道路遺構の報告書などには、底幅は何メートルで上幅は何メートルといったように表現されています。そこで一般的にいう道幅はどのようになっているのか調べたり聞いたりしたことをまとめてみます。(次ページへ)

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