坂戸市に残る鎌倉街道伝承  1. 2. 3. 4. 地図

 

 

勝呂廃寺 

石井の舌状台地北端部には将軍山・御殿山など意味ありげな地名がみられ、勝呂廃寺はその付近にあります。勝呂廃寺は埼玉県選定重要遺跡に指定されていて、東山道武蔵路を語るときにこの寺院を無視することはできない存在です。勝呂廃寺の創建は7世紀末頃と考えられていて、東山道武蔵路の築造時期と一致しています。古くからその存在は知られていて、昭和6年の『埼玉県史』には「石井廃寺址」として記載され、古代東国においてこの寺院の存在は入間郡内のみならず、武蔵国内においても重要なものであったと考えられるのです。左の写真は勝呂廃寺跡範囲確認調査のときのE地区で、検出された大型の掘立柱建物跡の柱位置を再現したものです。この建物は身屋部分が桁行4間、梁行2間で、四面の廂が付いていたといいます。金堂や講堂といった寺の中心的建物ではないようですが、同調査で確認された基壇建物跡と同じ軸線上にあることから寺院内の重要な役割を持った建物であったと考えられています。

 

旧勝呂公民館敷地内の勝呂廃寺建物跡 背の低い円柱は柱跡位置

 

 

右の写真は勝呂廃寺出土の軒丸瓦です。この写真は旧勝呂公民館の内庭に建つ説明板のものを使用させていただいています。私立歴史民俗資料館にて了承を得ています。

勝呂廃寺の瓦は、創建期(7世紀末)、再建期(8世紀前半)、国分寺創建期(8世紀中葉から後半)、衰退期(8世紀後半から9世紀後半)の4期があるそうです。創建期の瓦は鳩山町の南比企窯跡群の赤沼古代瓦窯跡で焼かれていたことが確認されています。また創建期の瓦は群馬県伊勢崎市の上植木廃寺の瓦工人が関与していることもわかっているそうです。再建期の瓦は生産地が特定できていなく、またこの時期の瓦は赤く焼き上がったものが多くみられるそうです。

 

 

 

左の写真は建物の柱穴です。勝呂廃寺の発掘調査は昭和54年から57年にかけて4回で、A地区からF地区の6カ所で実施されています。検出された主な遺構は基壇建物跡、掘立柱建物跡、竪穴住居跡、大溝、道路跡、瓦溜などです。遺物としては建物に葺いた瓦、須恵器類、土師器類、鉄製品、塔の先端の青銅製の相輪片などがあります。A地区で検出された基壇建物跡の周囲では多量の瓦類が出土していますが、東側に集中している傾向があり、東側に向かって建物が倒壊した可能性が考えられています。またそこで出土した瓦の多くは国分寺創建期頃と考えられ、創建期の瓦はE地区の瓦溜に集中していることから、この建物は創建期後に葺きかえが行われていたと想われています。更にこの付近から相輪片が出土していて、この建物は塔跡の可能性が高いとみられています。

 

右の写真は瓦の出土状況です。これまでの勝呂廃寺の調査では寺院の範囲や伽藍配置などを判断することはできませんでしたが、予想としては方一町(約109m四方)の規模と考えられているようです。検出された大溝も寺院域を区画するものとは断言できず、建物遺構も調査範囲が狭く、A地区の塔跡と予想されるもの以外はどのような特徴を持った建物であったのかがはっきりしていません。今後の調査に期待したいと思います。次に勝呂廃寺がどのような目的で建てられたのかですが、考えられることとしては在地有力氏族の私的な氏寺とすること、或いは郡家の居宅に近接して創立された郡家付属の寺院(郡寺)であるとする考え方です。一方では創建された当時は氏寺として造立され、その後に郡寺としての性格を備えるようになったとする見方もあるようです。なお現在、勝呂小学校の校庭に、勝呂廃寺の礎石と伝わる石があり、この石は塔心礎ではないかと推定されています。そうすると発掘調査地A地区の基壇建物跡にあったものだったのでしょうか。

旧勝呂公民館の内庭に建つ説明板には、「勝呂廃寺の歴史を考えるには、瓦の生産地や勝呂廃寺を建てた豪族など、坂戸だけでなく周辺の遺跡をも含めた広い視野で考えなければならないようです。」とあります。

埼玉県内の古代寺院としては、勝呂廃寺をはじめ、東日本最古の寺院と考えられる滑川町の寺谷廃寺や、推定幡羅郡衙跡の深谷市幡羅遺跡に隣接して建てられた熊谷市の西別府廃寺などがよく知られています。
右の写真は基壇建物跡が確認されたA地区の現状です。現在は畑になっていますが、畑地の表土を観察すると細かな瓦片、土師器片、須恵器片を見つけることができます。ホームページ作者も布目瓦片を採取しています

 

 

 

 

 

宗福寺(勝氏館跡)

左の写真は勝呂廃寺の旧勝呂公民館から直線で南西へ200メートルほどのところにある宗福寺です。宗福寺は曹洞宗で西光寺と同じく、龍ヶ谷村龍穏寺の末寺です。この宗福寺周辺は平安時代の末期以来この地を領した勝氏の館跡であったと伝えられています。その後に地元豪族の庇護を受けた時宗の聖がこの地にとどまり、鎌倉時代末から南北朝期に道場を設けて、多くの民衆に念仏を広めたものと考えられています。 境内には「南無阿弥陀仏」の六字が刻まれた大型の名号板碑があり、勝氏と浄土信仰の関係を物語る資料となっています。寺の北側には石井下宿集会所がありますが、そこは明治年間に廃寺となった観音寺があったところで、その辺りを堀ノ内と呼ぶようです。しかし残念なことに館跡を偲ぶ遺構などは現在ではほとんど確認できません。

 

右の写真は宗福寺境内にある六字名号板碑です。文和五年(1356)七月二十八日の紀年銘があり、開山とされる教覚の三回忌に造立されたものです。高さ298センチ(復元)、最大幅71センチ、厚さ10センチの堂々とした大きな板碑です。坂戸市は埼玉県内でも板碑が多いところですが、板碑の分布にも特徴があり、勝呂地区にはこの板碑のような六字名号板碑が密集しています。一方で入西地区には大日種子板碑が集中しているようです。名号板碑は勝氏で、大日種子板碑は浅羽氏の信仰に関係があると考えられています。中世においてこの地区の領主であった勝氏の支配や信仰のあり方、宗教施設の存在、そしてこれらと結びついた民衆との拘わりなどから、時宗の布教の重要な拠点があった可能性が指摘されています。文明年間に道興准后が「すぐろという所」を訪ねていますが、門光坊という熊野修験を訪ねていたとされています。門光坊は先に書いた観音寺にいたと考えられていて、観音寺は勝氏の屋敷の鎮守であった熊野神社(明治時代まであったが今はない)の別当寺です。『廻国雑記』では道興准后は先に河越の最勝院と常楽寺という時宗の道場を訪れています。道興の足取りを追ってゆくと各地の有力な修験や領主を訪ねていることが想像できるようです。  

 

『新編武蔵風土記稿』の石井村の項に「勝呂豊前守屋敷跡」のことが記載されています。堀ノ内の観音寺から宗福寺辺りとしながらも、勝呂氏先祖のいたのは大智寺の辺りとしています。勝呂豊前守は戦国時代の勝呂氏で、吾妻鏡に登場する村山党須黒氏の館は大智寺付近として、また大宮住吉神社の官司の勝氏についても語られています。以下その記事を書きます。

小名堀之内にあり、観音寺の邊より宗福寺の後までを云、豊前守が事蹟は詳ならざれども、塚越村の神職勝雅楽が物語るに、豊前守は永禄の頃此所に住し、小田原北条に属せしが、北条家没落の後、上総国久留里へ行き、里見家に仕ふ、其後里見も廃家となりしかば、やがて浪人して幾程なく卒すとなり、前の大智寺の條にも云ふ如く、勝呂氏先祖の住し所は大智寺の邊にて、其後いつの頃にや、此堀之内に居を移せしなるべし、七党系図に兵衛尉家恒が子に須黒太郎恒高と云ものあり、是『東鏡』に載る所の須黒兵衛太郎がことにて、永久の乱に討死せし由見ゆ、恒高の子須黒左衛門頼高なり、家恒の二男右馬允直家直家の子二人あり、長男を直忠と云、直忠の子左衛門尉行直この行直を一に頼高の子ともせり、直忠の弟国家とあり、又家恒の三男左衛門尉家時、家時の子太郎安家と見ゆ、又塚越村住吉社に永享元年の棟札あり、それにしるして大宮司前因幡守勝重真と云もの見ゆ、是かの雅楽が先祖なるべければ、古くより神職たることしらる、是に據ばこの豊前守は自ら別に分かし家なりと見ゆ、

旧勝呂公民館内庭に『廻国雑記』の歌碑があります。道興准后が「すぐろ」に来訪して詠んだ歌を以下に書きます。

旅ならぬ 袖もやつれて 武蔵野や すぐろの薄 霜に朽ちにき

 

 

胴山古墳

左の写真は石井新町の胴山古墳(新町1号墳)の西側(前方部)付近です。胴山古墳は新町古墳群の中心的存在の前方後円墳です。現在する墳丘の全長は67メートル、後円部径35メートル、前方部幅40メートルを測るそうです。二段築成で古墳の北側に周溝が残っているといいます。現在では古墳の東側と後円部南側は大きく削りとられていて、埋葬施設はまったくなくなってしまっています。この古墳の石室の石材と伝わる石が勝呂白山神社の境内にあり、また元宿所在の鬼橋の石材も同古墳の石室のものだったといわれていますが、確たる根拠はないようです。説明板には前部周溝が西側宅地裏に堀となって旧状をとどめているとあり、出土遺物がないために年代決定が困難であるが、6世紀後半の築造と推定したいとあります。新町古墳群には2号から10号までの小円墳・方墳が確認されています。これらの古墳は勝呂廃寺建立以前の同地区の古代史を探る貴重な資料です。なおここより南にある古代の官衙的施設の遺跡として知られる若葉台遺跡では、坂戸市と鶴ヶ島市にまたがる発掘調査地の総面積が30120平方メートルもありながら、調査地内で古墳は一基も確認されていないということです。

 

小代行平譲状

石井・勝呂の台地の北側は越辺・燉川の沖積地で、水田開拓整備がなされる以前は川や沼のある湿地帯だったといわれます。この広大な湿地を古代東山道や中世鎌倉街道はどのように通っていたのでしょうか。現在では古道跡を探るのはかなり困難で、わずかに古文書や伝承、古地名からその面影を想像するだけです。現在の坂戸市赤尾、島田、上吉田は中世初期には小代郷であったとされています。承元4年(1210)に書かれた『小代行平譲状』に小代氏の所領の範囲が記載されていて坂戸市の古道を研究する資料になっています。

右の写真は島田にある東蔵寺です。島田には天神社があり、永禄年間に京都北野天満宮から分祀し、鎮守として尊崇したものだそうです。東蔵寺は天神社の別当寺で臨済宗建長寺派の寺院です。東蔵寺から西へ200メートルほどのところに鎌倉街道と称する道がありますが、そこに接続する南と北の道がみあたらず孤立している感じです。 ただこの付近には条理制の地割も見られ、古い道があった可能性も考えられ、道免町という道と関連がありそうな小字名もあります。

 

 

小代氏は武蔵七党の児玉党で、現在の東松山市正代の高坂台地上に居館があったとされています。鎌倉幕府創建に尽くした小代行平の譲状には、越辺川の氾濫原であった、あかおのむら(赤尾)、よしたのむら(吉田)、をつへのむら(島田か?)の地が記載されています。『小代行平譲状』に「よしたのむらの四至」というのがあり、「道」に関して興味深いことが書かれています。

一所 よしたのむらの四至
東こさむのつゝみをかきる、南あとかわをかきる、西大たうのふるみちをかきる、北たむきのさかひをかきる、

「よしたのむら」は現在の坂戸市上吉田と考えられていますが、その文書の内容から中世初期のよしたむらと現在の吉田村は必ずしも同じ場所とは言い切れないようです。『坂戸市史』には「東和田と吉田は、現在では高麗川によって隔てられているが、小代行平の譲状を検討すると、鎌倉時代初期には高麗川は吉田集落の南を流れ、また越辺川も今より北方の東松山市高坂に近い山沿いを流れていて、吉田・東和田・それに東松山市田木の集落は地続きであったことが分かる。」とあります。
東のこさむのつゝみは、はっきりしたことはわかりませんが、吉田の東にある「をつへのむら(現在の島田か)」の西境に溝とあるので、それに沿って堤防があったと想像されます。南のあとかわは、現在の飯盛川付近に流れていた高麗川の流路と推定されています。あと川の名称は『和名抄』にみえる「安刀郷」に関連したところのものか、この川が中世当時の勝郷と小代郷の境界であったことがうかがわれます。このあと川による水運があったとも考えられ、古代には勝呂廃寺の瓦も、あと川の水運で運ばれていたのかも知れません。西の大たうのふるみちは、大道の古道で、鎌倉時代初期の時点で古い大道とは古代東山道の可能性が考えられます。『坂戸市史』には「吉田村の西境を示す大道の古道が鎌倉街道と称される道であったらしい。ただ現在鎌倉街道といわれる道が東和田集落に寄りすぎていることが気になるが、あるいは現在鎌倉街道と呼ばれるこの道が新しく開かれた大道で、小代氏の所領の境界線であった古道(旧道)は、この道よりもっと東方を通っていたのかも知れない。」とあります。北のたむきは、現在の東松山市大字田木と推定されています。

 

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