坂戸市に残る鎌倉街道伝承  1. 2. 3. 4. 地図

 

坂戸市内の鎌倉街道と東山道武蔵路について

川越市から坂戸市にかけて、鎌倉街道と伝わる道や土地が数多く存在しているのですが、あまり知られてはいないようです。ホームページ作者はこの辺りの道を以前は鎌倉街道上道の支線と捉えていました。しかし鎌倉街道上道の掘兼道に関しては、古代の東山道武蔵路を踏襲している可能性が考えられ、武蔵国から上野国の新田(太田市)方面への主要幹線ルートであったのではないかと想定するようになりました。近頃では古代東山道武蔵路について、歴史研究者や歴史愛好家の間でも注目されるようになってきているようです。東山道武蔵路については、川越市の女堀遺跡までしか具体的な推定ルートは紹介されていません。埼玉県中部から北部のルートはどうなっていたのか、古代道研究者によって一部の推定ルートは紹介されてはいますが、それを裏付けるような発見はしばらくはありませんでした。平成14年に吉見町で古代道路遺構が発見され、遺構の構造や規模から東山道武蔵路ではないかと当初からいわれていました。更にその後の平成18年に、川越市下広谷の古海道東遺跡から、中世鎌倉街道(掘兼道)と重複して古代道路の側溝と思われる溝が確認され東山道武蔵路のものと発表されています。この遺構は吉見町の古代道路へつながっていたのではないかという見方が有力になってきていました。そのような中で、平成22年11月に坂戸市戸宮の町東遺跡で、路面の両側に側溝を持つ(側溝間の幅約10メートル)古代道路遺構が確認されたと発表があり、現在では東山道武蔵路は二つの推定ルート(吉見町の古代道のルートと、当初から考えられていた坂戸ー東松山ー熊谷ー妻沼のルート)があることになりました。

坂戸市は古代と中世の遺跡や史跡が比較的多いところです。古代道や鎌倉街道がこの地域を通ることは、坂戸市付近が古代から中世の交通の要所であり、当時の人々の活動の拠点であったことがうかがえるのです。例えば鎌倉街道と伝わる道は、坂戸市内だけでもホームページ作者が調べた数は6ルートは確認できそうです。今回は坂戸市内を通過する鎌倉街道で、東山道武蔵路を踏襲した可能性が有る付近(坂戸市東部)をご紹介したいと思います。

東山道武蔵道についてはこちらのページを参考にしてください。
番外編・東山道武蔵道

 

 

横沼の釈迦堂

坂戸市の東は三芳野地区で、中小坂・紺屋・横沼・小沼・青木などの地名があります。この地区の東端には越辺川が南北に流れ、川縁から西に水田地が広がり、更にその西側に台地が広がっています。古より『伊勢物語』にも登場し、都人にも知られた「みよしの里」とはこの辺りであったのでしょうか。横沼の台地の東縁に、左の写真のお堂が建っています。小さなお堂ですが横沼の釈迦堂と呼ばれ、古くは規模の大きな堂であったといいます。そしてこのお堂は坂戸市の中世を語るには無視できない存在なのです。正嘉元年(1257)、執権北条時頼により横沼郷は鎌倉の大慈寺釈迦堂に寄進されていて、この横沼の地が鎌倉幕府と深いつながりがあった土地であることを物語っているのです。

 

『吾妻鏡』には、寛喜4年(1232)に武蔵国の榑沼堤(横沼の堤防と考えられていますが他の説もあるようです)が大破しているので、近隣の地頭に命じて修復しているという記事があります。現在では小沼の北辺から東に延びる堤防があり、更にその先では越辺川に掛かる付近から川沿いに南へと続いています。もしこの堤防が榑沼堤であったとするならば、当時から現在に近い景観があったのかも知れません。そのように想像して行くと、坂戸市横沼付近から鎌倉へつながる鎌倉街道があり、その道の存在は重要なものであったと想われるのです。

右の写真は圏央道坂戸インターチェンジの南側付近にある薬師堂裏墓地にある板碑群です。

 

 

 

坂戸市青木に残る鎌倉街道伝承

平成18年に川越市下広谷の古海道東遺跡で確認された中世の道路遺構は、その北で鎌倉橋を渡り大堀山館跡の東側の鎌倉街道と伝わる道へ続いていたと想定されます。その道は圏央道を過ぎるところで坂戸市に入ってきます。左の写真は圏央道のところから鎌倉街道伝承がある道を200メートルほど北へ進み、振り返り南側を撮影したものです。写真の道が鎌倉街道そのものなのかどうかはわかりません。或いはこの道の近くの地中に鎌倉街道の遺構は埋もれているのかも知れません。そして更に古代東山道武蔵道もこの近くを通っていたものと想われるのです。

 

右の写真は県道上伊草坂戸線が圏央道と交差するところの南西角に集められている小型の板碑群です。圏央道建設にともない周辺の板碑をここに集めたものと想われるのですが、詳しいことはホームページ作者にもわかりません。坂戸市は埼玉県内でも板碑の多く見られるところです。坂戸地域のお寺の墓地などを、板碑がないか探してみると数枚は見つけられるほどです。坂戸市内には破片も含めると800をこえる板碑が現存しているそうですが、発掘調査などで新たに発見される板碑も多く、その数は今後も増え続けるものといわれます。反対に市外に移された板碑もあり、森戸の大徳家に所蔵されていた板碑は県立歴史資料館へ、また東村山市の徳蔵寺に保存されている板碑は勝呂にあったものが多いということです。

板碑についての説明はこちらを参照ください。
板碑の説明

 

 

青木の鎌倉街道跡

右の写真は坂戸市青木に伝わる鎌倉街道跡です。ここにはご覧の通りの堀状の地形が見られます。この写真を撮影したのは平成22年の夏場で、写真を見るかぎり鎌倉街道を伝えるものは何もありません。しかし数年前には鎌倉街道跡の標柱と、左に数メートル離れて立派な説明板が建っていました。そのときの写真が下のものです。鎌倉街道跡の標柱と説明板はなぜなくなってしまったのか。ここが鎌倉街道跡ではないということが証明されたのでしょうか? 近くで農作業をされていた人に聞いてみました。その人の話によると、そもそも鎌倉街道跡の標柱や説明板は、ある期間まで設置してもらいたいということで、関連機関からお願いされたものだったそうです。鎌倉街道跡といっても、現在何が残っているというものでもなく、必要ないという判断で撤去されたということでした。

 

 

 

鎌倉街道を調べ歩いているホームページ作者には残念な話ですが、確かに現在では街道を偲ぶものは何もなく、わずかに堀状に窪んだところが堀割道跡なのか?ということだけです。それではこの堀状の長い窪地が街道跡なのか、それも聞いてみますと、後方の建物ができる以前は説明板の右に道があり、その道が鎌倉街道と呼ばれていたそうです。堀状のところは何なのか知らないということでした。何とも寂しいご判事ですがそれ以上は深く追求はできそうもありません。『坂戸市史』にはかって説明板の脇にあったという道の写真が載っていて、その道はそんなに広い道ではないようですが、林の中を行く雰囲気の良さそうな道であったように感じられます。

 

『新編武蔵風土記稿』青木村の項には「小名宿 此所は古鎌倉街道宿駅の名残なりと云傅ふ、此海道そのかみ小沼・塚越の方より村内を貫き、廣谷村の方へ通ぜしとなり、」とあります。この道は鎌倉街道上道の所沢から分岐した掘兼道の延長上にあり、川越市の河越館跡の西を通って、下広谷の大堀館跡の東脇からここへ通じていたものと考えられそうです。下広谷の古海道東遺跡で確認された中世道路遺構はおそらくこのルート上のものと考えてよいものと思われます。上の写真と右の写真は数年前(まだデジカメを使用する前)に撮影したもので、とくに右写真は堀状の地形がよく確認できます。  

 

坂戸市青木に以前存在した鎌倉街道跡の説明板
 

説明板の文

鎌倉街道跡
所在地 坂戸市大字青木

源頼朝が実権を握り鎌倉に幕府を開いてから鎌倉と往来する道路が整備された。
これらは鎌倉街道と呼ばれ、武蔵国の場合上野(群馬)下野(栃木)信濃(長野)越後(新潟)からの道筋にも当たるため、その開発は目ざましく、坂戸市内には、今なお三本の鎌倉古道が名残りをとどめている。
そのうち、市の東部に残るのは、坂戸市青木と小沼の境で、字別所から青木の中央を南に貫き、字前谷原で川越市下広谷方面に抜けるもので、明治の末に編さんされた「三芳野村郷土誌稿」には「この街道は幅員二間(三.六メートル)総長十五町四十六間五尺(約一.八○○メートル)平坦にして屈曲少なし」と記され、さらに「この街道は鎌倉幕府の頃上州からの通路にして宿駅ありし名残りなりという。今に宿西、宿東として小名残れり」とあるが、今日では別所付近の土塁も崩されたため、往年の景観は失われたものの東光、西光の両寺、十王堂などは残り、その面影をとどめている。

昭和五十六年三月
埼玉県

 

 

左の写真は青木を通る鎌倉街道跡から続く道で、台地から北側の低地へ下る長く緩やかな坂道になっています。写真は北側から南側を見ているものです。この写真付近は塚越と小沼の境になっていて、かっては深い切通しの道で、夕方暗くなると一人では歩けないところだったと、鎌倉街道跡の標柱と説明板が撤去されたことを語ってくれた人がいっていました。この道に沿って小字名、宿東・宿西・馬乗塚・別所などの地名がみられ、古道が通っていたことがうかがわれます。『新編武蔵風土記稿』にはこの辺りに屋敷跡があって、「往昔武士の居住せし跡とのみ伝えて姓名も知らず、溝へし内西北の回りに小土手今に残れり、其外皆畑となる、此畑の中より甲冑・刀・鎗の類の朽たる者を穿出せしことありと、想うに当国七党の内丹の党に青木氏なる者あり、其人の居住せし所なるも知べからず、」 或いはそこは丹党の青木氏の居住したところなのか、今は知るよしもなしということのようです。写真の道の左側が土塁のようになっていますが、これが横沼の北を水害から防いだという堤防の西端で、いつ頃築かれたものなのかこれも詳しいことはわかりませんでした。

 

『新編武蔵風土記稿』にはまた、街道の近くに昔、薬師堂があって、何なる故にかその堂を破却し、その薬師堂の薬師如来像は塚越の西光寺に、十二神将像は小沼の東光寺へ移されたとあります。

雷電塚古墳
右の写真は小沼の東光寺が所有する県指定史跡の雷電塚古墳です。伝承鎌倉街道の東に100メートルほど離れて現存し、坂戸市内では原形をとどめる前方後円墳として貴重な史跡です。築造当時の墳形推定では、全長47メートル、高さ前方部3.2メートル、後円部4.5メートルと報告されていて、現状もほぼそれに近い大きさです。古墳の周りからは円筒埴輪の断片が多く出土していて、また平成2年の部分的トレンチ調査等から、周溝が巡っていたことが確認されています。築造時期は6世紀中葉から7世紀始め頃とされています。現在後円部墳頂には雷電社の祠があり板碑片も見られ、また北端部に江戸時代の宝篋印塔と石地蔵があります。古墳の南側には陪冢と考えられる稲荷塚もあります。

 

 

赤尾の伝承鎌倉街道

青木の伝承鎌倉街道は北へ台地を下りると飯盛川の前に出て、その川を第2渡戸橋という橋で渡ります。そこから北は「赤尾」の水田地帯を北へと進んで行きます。坂戸市北東の勝呂地区水田地帯は越辺川・燉川の氾濫原で、昔は広い湿地帯であったといいいます。鎌倉街道はこの湿地帯のどこをどのように通っていたのでしょうか。現在では水田開発整備により古い道の痕跡はほとんどわからなくなってしまっています。それでも赤尾には鎌倉街道と称するところが二カ所みられます。右の写真は越辺川の天神橋の南側付近で写真の左側(西側)近くに鎌倉街道があったといわれています。写真の道の先は「林前」といい、諏訪神社があります。赤尾は信州諏訪方面から来た人達が住んでいたともいわれます。写真の石碑には「ぼんやりと 日暮の土手に牛立てる」と刻まれていて、裏面に「郷土を水害から守ろう」「ふるさとの詩」が書かれています。

 

 

 

  左の写真は赤尾の北部小字本村を南北に通る道で、成就院へ入って行く道が接続するところです。写真の道が鎌倉街道なのかどうかはわかりませんが、鎌倉街道と称されるところはこの道よりも西側にあります。坂戸市の北東の赤尾・島田は中世には小代郷に属していて、南の勝郷の石井・塚越とは現在の飯盛川の流路に近いかたで流れていた「あと川(安刀川)」という川で隔てていたようです。鎌倉時代初期の『小代行平譲状』には、そのあと川のことが書かれていて、現在の泉町付近から高麗川が東に流れていた川であったようです。中世初期の赤尾・島田地帯は河川の氾濫原で、沼が点在する湿地帯で、鎌倉街道は自然堤防上を通っていたと想われます。現在の水田地帯には小字名では堂沼・長瀞・清水・渡戸・ドブなど、川や沼に関連する地名が多くみられ、ドブは水の流れのゆき場がなくなった文字通りの泥沼地で、中でもオオドブというところがあり、そこは『小代行平譲状』に出てくる「えそぬま」ではないかともいいます。また築道という地名もみられ、湿地帯の中を通る道が想像されます。

 

  左の写真は赤尾の北部にある成就院です。曹洞宗の寺院で釈迦如来を本尊としています。境内には種子も摩耗してわからなくなった大きな板碑があり、その後方の和田家板碑供養宝塔というところに、小型の板碑や板碑片が多数あります。その中で注目されるのが「南無阿弥陀仏」と刻まれた六字名号板碑です。坂戸市勝呂地区にはこの種の板碑が多くみられます。成就院の北には白山神社があり、そこの小字名は御殿となっています。神社の裏は堤防で、堤防を越えると越辺川と都幾川が合流するところです。そこに架かる赤尾落合橋と長楽落合橋という二つの冠水橋で対岸に渡ると、川島町の長楽に入ります。鎌倉街道はその先は東松山市古凍へ向かっていたと想われます。古凍から北は吉見町の息障院(伝源範頼館跡)方面へ進んだとすれば吉見町の西吉見条里U遺跡の古代道を踏襲していたことが想像されます。

 

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