平成18年10月28日
芳野遺跡現地説明会から
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芳野遺跡、溝状の遺構

平成18年10月に、福島県白河市白坂で、江戸時代初め頃の道跡が発見されたという情報を得ました。10月28日に現地説明会が行われるというので行ってまいり、このホームページの作成に至ったのです。
上の写真はその時の遺跡調査区のほぼ全景を撮影したものです。青いテープが張られた溝は中世のものであるといい、黄色いテープが張られた範囲は江戸時代初め頃の道の跡だといいます。左の写真は江戸時代初め頃の道跡を撮影したもので、左側に側溝と思われる溝と、右側にには黄色いテープが張られ、その間が道跡であるのが確認できます。

江戸時代初め頃の道跡が発見された遺跡は「芳野遺跡」といい、遺跡範囲内での中学校建設に伴う発掘調査が平成17年度から行われていました。遺跡の場所は白河市白坂芳野地区で、近世に編纂された文献にみられる中世の吉野宿の跡ではないかと考えられているのです。
右の写真は堀立柱建物跡です。この遺跡では建物の建て替えが少なくとも4回以上あることが確認されていて、長期間にわたって人々が居住していたことがうかがえると説明されていました。

左の写真は発掘された井戸跡です。井戸跡にはこの写真のような上面が方形で途中から円形となるものがあり、この上面が方形なのは井戸枠が設けられていたものと考えられているようです。深さは3メートルほどで、現在でも水が溜まっているものも見られます。また、上面から底面まで円形のものも見られるといいます。

右の写真は、上の写真のものとは別の井戸跡です。こちらも上面が方形で途中から円形になっているようです。井戸跡内からは、常滑窯産の陶器や木製品、さらに漆器なども出土しているようです。これらの出土遺物は13〜14世紀のものが大半であるといいますから、この芳野遺跡は中世の集落跡と考えられているのです。井戸跡は遺跡の南北方向の中央部にはほとんど見られず、この井戸の見られない部分に道があったものと想定できるのです。

左の写真は江戸時代初め頃の道跡部を撮影したものです。たしかに道跡部には、柱穴のようなものや土抗などは少ないようです。ひとつ残念なこととして、遺跡の地表の浅い部分は、後世の錯乱により遺構が検出されず、道路遺構の硬化面がはっきり確認できないことです。
芳野遺跡へ訪れてみて、予想外だったことは、道路跡が東西方向に走っていたことでした。江戸時代初め頃の道ということで、初期の奥州街道を想像していたものですから、道跡は南から北へ走っているものとばかり想像していたのです。

この芳野遺跡は東西方向に長く延びる微高地上にあり、いかにも中世の人々が居住地として好みそうな地形であると思いました。

右の写真は竪穴遺構です。半地下式の遺構で、床面は土を叩き締めた土間状のものが多いようです。中には床面の一部が赤く焼けたものが見られ、作業場や倉庫として使用されたと考えられているようです。出土遺物は中国製の磁器類や常滑窯製の甕類やすり鉢、陶器類など井戸跡から出土したものと同じ13〜14世紀のものが大半を占めているそうです。また、竪穴遺構は堀立柱建物跡と重なるものが少なく、竪穴遺構と堀立柱建物跡は同様の年代のものと見られているようです。

江戸時代の初め頃の道路跡

上の写真は江戸時代初め頃の道跡を遺跡調査地の中央部から東側へ向かって撮影したものです。道跡はわかりずらいですが写真の右下から左上へ向かっています。左上の白い壁の途切れるところの先には、一里塚が見られます。写真の手前から中央を貫く溝は、道跡を斜めに横断するもので、どのような性格の溝なのかははっきりしませんが、江戸時代初め頃の道とは時期の異なる道跡の側溝類なのかも知れません。写真の遠景の森は「鍛冶屋敷館跡」と呼ばれるところで、空掘や土塁の跡が現在しているところです。左の写真は上の写真の反対方向である西側の道跡を撮影したものです。

右の写真は上の写真の道跡を斜めから撮影したものです。手前の溝は黄色いテープが張られているので江戸時代初め頃の道跡の南側側溝になるようです。この道跡の側溝から、江戸時代初め頃の陶器片が出土していることにより、その時代の道跡ではないかと考えられているのです。側溝は南北両方が確認されていて、道幅は約8メートルで、道跡は遺跡の東側に見られる一里塚へ向かって真っ直ぐに延びています。その一里塚は江戸時代初期の奥州道中に伴うものと考えられていることから、発掘された道も初期の奥州道中の可能性があると指摘されています。

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