きまぐれ 風のささやき…2  2010年3月

残しつづけて。

(毛呂山町市場・西大久保境界の道路遺構-伐採)

伐採以前の写真集 1. 2.

平成22年3月に毛呂山町市場・西大久保の境界にある鎌倉街道上道の堀割状遺構が大変なことになっているという情報を教えていただきましたので早速休日に現地の状況を確認してきました。上の写真は堀割状遺構のある林を北側の町道から見たものです。以前よりも林の木が少なくなっているようです。

 

がーん…。堀割状遺構の中央部と西側の土塁状のところの木が全部伐採されています。「鎌倉街道遺跡」の標識も移動されているようです。いったい何があってこんなことになってしまったのか、毛呂山町歴史民俗資料館で聞いてみたところ、ここの町道を通る車が、木があって通りずらいので地権者の判断により木を伐採したということでした。ただ当初は町道際の木のみが伐採されると思われていたので地域住民の方々や町の遺跡保存に拘わる関係者などは、こんなに景観が変わってしまい戸惑いを感じているようです。この事態、誰の責任とかいうのではなく、いろいろな要因がからまって起きたと考えた方がいいのかも知れません。

 

木が伐採されてしまってはいますが、地表面の掘り返しはなされていないようです。何とか道路遺構そのものは無事のようです。木が無くなってしまた反面で堀割状遺構である道両側の土塁状の盛り上がりがよく確認できます。遺構の大きさも林であったときよりもかなり大きく感じられます。木が伐採されて悲しんでいる方には申しわけないようなことを言いますが、木が伐採されたことで鎌倉街道を知らない人には、「鎌倉街道って、こういう感じの道だったのか」と見て実感しやすくなったように思いました。

 

東側の土塁状側は木は伐採されていないのは何故なのか、西大久保側は土地の関係者が違うのだそうです。ホームページ作者が初めてここを訪れた頃は、遺構の中央部の窪地は藪と湿地状態であったのを記憶しています。その後、だんだんと地表の乾燥化が増し、遺構の中に人の出入りが多くなってきているように感じていました。

 

先月、さいたま市北区に残る鎌倉街道のホームページを作成していましたが、地域住民と行政とで保存運動が行われているようで素晴らしいことだと感心していたところでしたが、ついそのやさきでこんな情報が飛び込んできてホームページ作者もさすがに驚いています。鎌倉街道の代表的存在である上道の、それもわずかに残されている貴重な道路遺構がこのありさまで、しばし言葉も出ませんでした。

 

史跡の中でも「道」はやはり歴史関係者や研究者には興味の薄ものなのでしょうか。江戸時代(近世)の五街道のように道筋や道路遺構(道路の構造)がはっきりしているものは全国各地に充分なくらい残され守られています。こと中世以前の「道」となると道路の構造はおろか、道筋さえいまだにわからないことが多過ぎます。中世や古代の道の解明はその時代の歴史そのものの解明に大変重要なものであるとホームページ作者は考えてきました。

 

文化庁の「歴史の道百選」というのがあります。この毛呂山町の鎌倉街道上道遺跡もそれに選考されています。選定の内容として、『これは、これまでの「歴史の道」の調査・整備・活用事業の実績と蓄積を踏まえて、より一層、「歴史の道」及び地域の文化財への国民の関心と理解を深めることを目的に、都道府県教育委員会の協力により、全国各地の最もすぐれた「歴史の道」を選定委員会で厳選したものです。』とあります。今後の整備について『文化庁で行っている「歴史の道整備活用推進事業」の他、建設省等の関係機関と調整、協力して推進していく予定です。』とあるようですが、ホームページ作者が鎌倉街道のホームページを作成して以来、国や都道府県単位の「歴史の道」に対する活動はあまり実感できものではありませんでした。

上の写真は堀割状遺構の南端部付近で、何故かここだけ遺構の中央部の木は伐採されていませんでした。

 

上の写真は南側から北側を撮影しています。こうして木が無くなって見てみると、西側の土塁状の高さが一定で真っ直ぐな法面は人為的に造られたものであることがうかがわれます。林であったときよりも堀割状遺構が大きく感じられます。実際のところ、この道路遺構は約800年前の鎌倉時代初めに造られたものなのか、またはそれ以降に造られたものなのか、はたまたもっと古い古代の築造なのか、詳しい調査は行われていません。昭和56年(1981)に歴史の道調査に拘わる発掘が行われていますが、幅50センチのトレンチが二本行われているだけで、幅4メートルの道路面と考えられる平坦面と側溝と考えられる溝がその両側に確認されています。

 

上の写真を見ていると、この遺構の道が真っ直ぐであることが実感できます。土塁状の高さも大夫あり、その土塁状の傾斜が緩く幅が広いことから、地表面に残る遺構としては古さが感じられます。

「歴史の道百選」は平成8年に各都道府県教育委員会文化財主管課長にあてられています。その時の選定は78カ所で、『今後さらに良好な「歴史の道」を選定していく予定です。』とあるようですが、その後選定された「道」はないようです。まだ残りが22カ所もあるのに、歴史の道の選定委員会は活動しているのでしょうか。栃木県那須烏山市とさくら市境界の「将軍道」は東山道関連遺跡として平成21年に国指定史跡になっていますが、歴史の道百選にはなっていないようです。

現代の日本人の多くは「歴史の道」などに興味がある人はあまり多くはないようです。ホームページ作者は関東各地の古道を尋ねていろいろと見てきています。そして各地の歴史・民俗資料館などを訪問するのですが、休日にも拘わらずそのような施設に訪れる人の少なさには呆れるばかりです。資料館の中では閑古鳥が鳴いています。一部のメディアは歴史ブームなどと言っていますが、全くそんなものは感じられません。「NHKの歴史大河ドラマブーム」というのが正解じゃないかと考えます。現在の日本人の多くは個人的価値観が薄いようで、メディアで話題にならなければ興味をもてないのか? テレビで歴史ドラマでもやらないかぎり、現代日本人は己の国の歴史など見向きもしない人が多いのでしょう。修学旅行や卒業式をレジャー施設で行うようじゃ、日本も日本人もやがて無くなってしまうのじゃないかと。

 

「歴史の道百選」の選定として挙げられることにどんな意味があるのか。選定されているところがこのような事態にもかかわらず、マスコミなどのメディアなども何も反応しないし。日本人の一人一人が自ずから自分の国の歴史に関心を持たなければ、鎌倉街道のような史跡は次々と消えてゆくことでしょう。「歴史の道百選」について今回はかなり辛口な感想を書いてしまいました。歴史や古道の研究者でもない作者が趣味で始めたホームページですが、約10年経った今では研究者も評価の参考としているホームページになっているようで、責任を感じながら作成しているのも事実ですし、作者のホームページ運営費や取材・資料集めの労力や時間は大変なものなのですから、これくらい言わせてもらってもよいのではないかと。

 

さてさて、この堀割状遺構はこのあとどうなってしまうのか。木は伐採されても遺構はまだ残っています。国か県単位の史跡指定をホームページ作者は望みます。実際それだけの価値があるところです。専門家ならそれがわかってもらえるはずです。箱根西坂の三島市平安鎌倉古道が地元の住民の中に、「あそこは推定だろう」とほとんど相手にしていない人がいるそうです。古道中に建てられた碑に「推定」の字があるためだとすれば、それは大勘違いです。現在国指定史跡になっているものは道路遺跡に限らずその殆どは推定で、確実に何々の城とかいえるもんはごくわずかなのです。史跡に指定されるものは遺構の存在が認められ歴史研究の貴重な資料になり得る価値があるかどうかなのです。「道」の遺構は、城館跡や古墳などにくらべると、本当にわずかしか残っていないのです。毛呂山町歴史民俗資料館で聞いたところ、ここの遺構は今後も大切に保存されるそうです。ただ元の林の状態にはせずに、木が伐採されてしまった現状を基調として今後の保存のあり方を考えてゆきたいとのことです。今回の事態を教訓に地域の人々にもこの史跡の存在をもっと知ってもらいたいし、さらなる遺跡の調査なども行ってゆきたいとも言われました。

道路跡として数百年もの間、その姿を生き伝えてきたこの場所に、
どうか、この「道」を残しつづけてください………。

 

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