埼玉県上尾市の鎌倉街道

古道 鎌倉街道

以前に大宮台地の鎌倉街道羽根倉道を調査したことがありました。
大宮台地の鎌倉街道羽根倉道

今回はその続きと考えられる上尾市の鎌倉街道を紹介します。
上尾市の鎌倉街道は鎌倉街道羽根倉道と推定され、一部で伝承が残されています。伝承区間は短く古道跡の遺構が見られるわかではありませんが、地元の方々が大切に伝承を継承し守られてきたことが窺えます。上尾市内の鎌倉街道は東町の東町会館前から北東へ進み鎌倉橋で芝川を渡って二ツ宮の氷川神社前へ出てそこから平塚方面へ抜けるものです。

上尾市の鎌倉街道東町会館前東町会館前のむくの木と勢至堂跡
国道17号線、愛宕交差点の北約100メートルの道路東側に東町会館があります。ここにむくの木の大木があり市指定天然記念物になっています。右の写真はむくの木の前にある説明版と鎌倉街道の標柱です。むくの木の説明版によりますと、幹回り4.9メートル、高さ約15.6メートルを測り、樹齢5~600年とあります。ここには昔「勢至堂」というお堂があって、脇の細い道路が鎌倉街道で、江戸時代には街道の南西あたりに松並木があったということです。

勢至堂とは勢至菩薩を祀ったお堂であったのであろう。このお堂の裏の池をさらった時に文明10年(1478)の「月待供養塔」が発見されているといいます。勢至菩薩と月待供養とは密接な関係があり、中世の供養塔がここにあったことからも鎌倉街道の存在を窺わせてくれるものがあります。

東町会館前のむくの木

月待供養塔は市指定文化財で小川家に所蔵されているそうです。高さ110センチ、幅33センチの逆修板碑で、阿弥陀三尊種子に光明真言及び十三仏が表されていて二十三夜の月待信仰と習合したものだそうです。

むくの木の脇の細道は、どこにでもある街の生活道路といった感じです。むくの木の傍らの墓地は勢至堂の名残でしょうか。

東町会館から数十メートル進んだ付近の鎌倉街道

細道を先へと進んで行きます。上の写真の突き当りを左に折れ、百数十メートルでY字路がありそこを右に曲がります。その先右手には東町公園を見ながら更に進んで行きます。東町公園が終わる付近でやや左に道は折れ、そこからは道の両側が住宅で古道の雰囲気は全くありません。どこにでもあるような住宅街の通り道といった感じです。道の東側には排水溝でしょうか、完全に地中に埋め込まれているようです。右側から接続する道との接点に鎌倉街道の標柱が立っていました。この道が鎌倉街道であることを教えてくれています。

東町公園と鎌倉橋中間の鎌倉街道標柱もう一つ上尾市内の羽根倉道とは別の鎌倉街道
ここで上尾市内の鎌倉街道として羽根倉道以外の別の路線を少し紹介します。歴史の道調査報告書「鎌倉街道上道」には、「大宮台地に沿い上尾市平方を経て、桶川・北本・鴻巣を通過し、吹上に至り、行田・羽生を経て利根川を渡河し上野に至る道がある。」と書かれています。この道筋沿いには中世に遡る史跡や文化財が多く見られ、上道と中道の中間に上野に抜ける要路があった可能性は非常に強いということです。

この路線の上尾市内の具体的道筋は示されていませんが、大よそに追ってみると、上尾市西部の平方から北上し畔吉、領家と進んでいたものと考えられます。荒川左岸のこの地域は上尾市内で最も中世の史跡や遺跡が多いところです。また古墳なども見られます。その北は桶川市の川田谷ー泉福寺ー三ツ木城、北本市の石戸宿ー石戸城、鴻巣市の伝・源経基館などの近くを進んだものと思われます。荒川(和田吉野川)沿いに北上するこの道筋は舟運も便利であったと考えられます。

東町公園と鎌倉橋中間の鎌倉街道標柱から振返る

芝川に架かる鎌倉橋
再び東町の羽根倉道へ戻りましょう。前方にコンクリートの橋が見えてきます。この橋が「鎌倉橋」です。下の流れは「芝川」です。現在の芝川は江戸時代の享保13年(1728)に見沼溜井が干拓され見沼田圃となった時に、見沼田圃の最も低いところを開削し排水路(川道)としたものだそうです。また芝川は江戸時代に「中悪水」と称され、この悪水は汚い水ということではなく農業用水でない水という意味だといいます。

上尾市の鎌倉街道の鎌倉橋-南から北

さて、中世の時点で芝川はどのように流れていたのかは分かりませんが、江戸時代には芝川が流れていて古道が渡る橋があったものと思われます。江戸時代の上尾宿絵図に、中山道から東に向かう「幸手道」が描かれていて、橋のたもとで合していて鎌倉橋は幸手道の橋となっていたといいます。

上尾市の鎌倉街道の鎌倉橋-横から見る

鎌倉橋は明治初年の記録によれば「長三間(5.4m)・幅二間(3.6m)・石造」とあり小さな橋であったようです。増水時は冠水して渡れなかったのかも知れません。橋上から東側を覗き込むと、北側及ぶ南側から排水が川へ流れ込んでいるのが見られます。南側の排水はここまで歩いてきた鎌倉街道東側の側溝からのものか。北側は橋を渡った右手の工場からのものか。

上尾市の鎌倉街道の鎌倉橋-北から南

また鎌倉橋は、橋を渡った先の二ツ宮氷川神社の参道橋でもあったようです。この鎌倉橋の付近東側の小字名は「鎌倉橋」となっていました。鎌倉橋の橋名や小字名はおそらく江戸時代に付けられたものと思われますが、鎌倉橋という橋や鎌倉の付く地名があるところは、近世に鎌倉街道伝承があったところと推測され、他にもそのような例は沢山見られます。

鎌倉橋の欄干の橋名氷川神社の鳥居に向かって真っすぐ北へ進む鎌倉街道は、氷川神社の手前で北東から南西へ斜めに横切る道と交差しています。その交差点の傍らにも鎌倉街道の標柱が立っていました。

古道が集中する変則五差路
この交差点から鎌倉街道は右折して北東方向へ進んで行きます。右折して進み最初の交差点は変則五差路になっています。氷川神社裏側の西から接続する道は、 芝川の「道三橋」方面からの幸手道になります。

この五差路には寛政五年(1793)の庚申塔道標があり、台石正面に「右原市、左上尾」、台石右面に「右小室」、台石左面に「左桶川」とあります。小室は現在の伊那町で、この小室へ向かう道が幸手道の続きと思われます。そしてこの庚申塔道標の傍らにも鎌倉街道の標柱が立っています。

鎌倉橋から氷川神社への道

五差路の南へ向かう道を進めば6~700メートルのところは小字名「榎戸」と呼ばれるところで、そこには「西尾氏陣屋」があったといわれています。江戸時代初め頃の原市藩主・西尾隠岐守吉次の陣屋と伝えています。

氷川神社手前の交差点

幸手道と古い道標
幸手道は五差路を東へ向かい百数十メートル進むとY字路がありそこにも鎌倉街道の標柱が立っています。そのY字路の左が鎌倉街道で右が幸手道と思われます。右の幸手道を更に進むと原市方面から来る道と交差した角にも嘉永五年(1852)の庚申塔道標があります。この道標の右側面に「東方さって、くき、多かの」とあり幸手の地名が刻まれています。

更にそこを東進すると平塚の交差点へ出ます。平塚の交差点も東進すると300メートルほどで信号のある交差点がありそこの角にも文政十年(1827)の庚申塔道標が立っていて、正面下部に「くき、さって、志おんじ、い王つき」とありこの道標にも幸手の地名が刻まれています。このように市街地の中にある細道がかっての幸手道の古道であったことを道標が教えてくれています。

古い道標はそこにあってこその歴史遺産であり文化財であります。古い道標を仕方なく移設する場合は、元は何処にあってどの様な役割を果たしていたのかを記録に留めて欲しいものです。

鎌倉街道の標柱

上尾市史第八巻に上尾市の鎌倉街道のことが書かれています。そこに昭和初期に撮影された二ツ宮氷川神社前の鎌倉街道写真が掲載されています。氷川神社の鳥居と神社の森があり、その前を一つの道が鳥居前まで続き鳥居前から右へ逸れて行っています。現在のこの辺りとは全く違った景観です。道と神社と畑だけで人家は全くありません。

氷川神社前

ニツ宮氷川神社の由来
ニツ宮氷川神社は創建は中世にまで遡るとされ、元来男体・女体の両社からなり、小字名のニツ宮の由来ともなっています。上尾宿・上尾村・上尾下村の三村の鎮守社でありましたが、明治四一・二年の神社合祀の時に女体社は上尾宿の鍬(くわ)神社を合祀し、現在は男体社が本殿として残り女体社のあき宮は愛宕神社の本殿として譲られたということです。

現在の氷川神社本殿は市指定文化財の彫刻が施され製作年代や作者は不明ですが中国の故事を現わした立派なものです。

氷川神社北東の変則五差路

その先の鎌倉街道推定路線
上尾市の鎌倉街道はこの後はどこを通りどこへ進んで行ったのでしょうか。上尾市史第九巻には、平塚ー密蔵院前ー(北上)-伊奈町中萩ー六道ー羽貫へ抜ける、とあります。

平塚の密蔵院には上尾市内で一番古い仏像といわれる市指定文化財の日光・月光菩薩立像があります。薬師堂の秘仏の薬師如来像の脇侍で平安時代後期の作であるといいます。なお日光菩薩は一木造で地方仏師の作で、月光菩薩は寄木造で定朝様彫刻に習熟した仏師の作といいます。いずれも優れた仏像です。

平塚から伊奈町の途中菅谷には菅谷北城跡があり鎌倉時代から江戸時代まで機能した城であったようで、土塁と堀が確認されています。

伊奈町から先の道筋ははっきりしていないようですが、蓮田市ー久喜市(旧菖蒲町)ー加須市と進み加須市北部の大越付近で鎌倉街道中道(奥大道)へ合流していたと推定されています。

参考資料
上尾市史第八・九巻
歴史の道調査報告書「鎌倉街道上道」
上尾歴史散歩209ー上尾の古い地名を歩こう5


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