武士道と武家屋敷と

いにしえに思う

ブログ作者は、つい最近まで自分の住む川越市内に武家屋敷なるものがあることを知りませんでした。前回の記事「七曲り、八起き」でも少し触れた「永島家住宅」がそれですが、解説によれば川越市内だけにとどまらず、埼玉県内でも当時に近い状態で残る武家屋敷は「永島家住宅」のみであるということです。ここは川越城南大手門の南西にあたります。現在の三久保町はかって侍町といわれ、上中級武士が屋敷を構えたところであったそうです。

武家屋敷という言葉のイメージから連想されるものは、長屋門とか土塀に囲まれた屋敷の佇まいなどを連想しますが、川越市の「永島家住宅」は景観的にそういった趣はありません。

「そもそも武家屋敷とは何ですか。忍者屋敷とかは聞いたことがあるが」、そんな質問が帰ってきそうです。武家屋敷とはお化け屋敷みたいなもので肝試しをするところです。などと冗談を言って読者を笑わせ少しでも引き留めて置き、ここでは武士道精神なるものも少しだけ書いてみたいと思います。

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永島家住宅の入口の門

武家屋敷永島家住宅

枳殻の生垣で囲まれた敷地の入口は腕木門で、北側の道路面よりやや高くなっています。門を入ってすぐに空間があり、表面奥が玄関で左手が土間になっています。ボランティアガイドさんがいて、頼めば説明してくれます。拝観は無料で毎週土曜日のみが公開されています。

武家屋敷の知識が無いとここは、何処にでもある古い住宅に見えます。屋根は元は茅葺きですが、現在はトタン屋根で覆われています。ガイドさんに聞いたところ茅葺きは防火上の規制で禁止されているそうです。関東では千葉県佐倉市の武家屋敷が知られていて、そこにある三棟の武家屋敷の二棟は茅葺きで一棟のみが銅板葺になっていますが、永島家住宅も川越市指定文化財ならば出来ることならば整った銅板葺にして貰いたいと感じました。また建物が汚れていることも少し気になりました。文化財は一般の人に触れる場合、雰囲気が凄く大事で、それだけで受け手の印象が変わってしまいます。いきなり辛口の感想を書いて仕舞いましたが、これから少しづつでも良くなることを期待を込めて書いています。

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永島家住宅へ入って土間を見る 枯れた蔓草に覆われた建物が印象的

武家屋敷は、そこに住んでいた武士の持ち家ではなく、藩から拝領された借家ですが家賃は取られなかったそうです。藩の武士は住む場所は与えられていたとのこたとですが、住んでいた武士の格式が変わると住居は転居させられていたようです。

永島家住宅の武家屋敷に住んでいた武士は、資料などから下記がわかっているそうです。
松平大和守家時代
匂坂鹿平(さきさかかへい)300石 物頭
堤愛郷(つつみあいこう)250~350石 御典医
三野半兵衛(さんのはんべい)250石
幕末の松平周防守家時代
石原昌迪(いしはらまさみち)110石 御典医

明治23年頃 東京帝国大学教授 歯科医学者 石原 久が在住していました。

大正6年に永島家が石原家を買収

最初に土間に入ると中はかなり暗いです。土間は明治時代に付け加えられた部分ということです。この土間は馬屋があったそうでです。台所はこの武家屋敷が川越市に寄付される前迄、永島家のおばあちゃんが住んで生活していたようで「かまど」が残っています。ガイドさんの説明で、土間に大黒天と恵比寿様が祀られていて、この二つは台所の神として祀られていたものだそうです。

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土間を出た東側の庭には竹林がある

土間を出ると井戸があります。ガイドさんの話によると川越城を築いた太田道真・道灌親子は川越の土地は湧き水が豊富で水を得るのに適していることを知っていて、ここ川越に城を築いたと語られてます。川越市小仙波には龍池弁財天双子池という透明な水の湧き水があります。

井戸の左手奥に屋敷稲荷があり、この神社には万延年間に海防の為に相模派遣された武士の武運長久を祈願したお札が納められていたそうで、現在そのお札は座敷床の間の置き時計前に置かれています。

武家屋敷の庭には御典医が住んでいたことからか薬草が植えられています。また古い木が幾つかあります。茶の間前にはサルスベリの古木が、座敷の南にはカヤの古木があります。さらに富士山の溶岩も庭石として置かれていました。

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茶の間前の庭先にはサルスベリの古木が

武士道について

ここからは「武士道」について思うことを少しだけ語らせて頂きたいと思います。

過去の日本に武士と呼ばれる階級の人々がいました。江戸時代の身分制度の士農工商の上の「士」がそれにあたります。武士の始まりは鎌倉時代初めの関東で起こった武家政権(封建制)からと言われていますが、それ以前からもあったかも知れません。彼らは、戦うことを職業としていました。何のために戦うのか、主君に使えるため、またそれを誇りとしていました。そして彼らは「侍」とも呼ばれていました。

特権階級の武士が守るべき道徳律は武士道の源で時代の変遷とともに研磨されて行きます。江戸時代になり、気高き武士たちの姿は、当時の大衆の娯楽にも描かれ、武士道の精神が庶民一般にも広く伝わって行き、日本人の普遍的な倫理道徳観となって行きます。それは大和魂として浸透して行きます。明治時代になり武士の職業は無くなりますが、廃り行く日本の伝統的精神を嘆き惜しみ、「武士道」としてまとめられたのはその頃であると言われます。

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四帖の間と座敷前の庭を照らす木漏れ日が柔らかい

新渡戸稲造の『武士道』

旧五千円札の肖像画人物である新渡戸稲造はクリスチャンの視線から『武士道』という本を英文で書いています。英文とは日本人の為に書かれたものではなく、欧米人に西欧の哲学や倫理観に作例を示して日本の封建社会における倫理・道徳・価値などを説明した本だったのです。ブログ作者はそこに『武士道』を見る意味があるのではと考えています。

以下ブログ作者がその本(岬 龍一郎訳-PHP文庫)を読んで気になった言葉などを幾つか書き止めて起きたいと思います。

※ 赤文字は本文引用、緑文字は翻訳者解説から引用しています。

 

武士道が日本人に遺したもの

○.日本人の表皮を剥げばサムライが現れる

人間の闘争本能というものは普遍的で自然なものである。そこに高尚なる感性や男らしい徳目があったとしても、それが人間性のすべてではない。それ以上にもっと神聖なる本能が潜んでいる。すなわち愛という本能である。
それまで見てきたように、神道も孟子も王陽明もみな、明らかにそのことを教えていた。武士道や、戦闘的タイプの道徳はいずれにおいても、目の前の現実に心を奪われて、えてしてこの「愛」という本能の存在をないがしろにしてきたことは確かである。

武士道は仏教、神道、儒教のそれぞれの思想の特徴を融合させ、封建社会で武士階級が
守るべき掟として考えられ、それを実践することでした。近世以降は武士階級に留まらず日本人の一般的な道徳とされようになって行き、日本の伝統的精神の源とも考えらています。

 

武士道とは

○.勇猛果敢なフェア・プレーの精神

サムライであるならばフェア・プレーの精神こそが大事だと考えたいです。現在の社会では勝者だけがもてはやされていて、それ以外は大衆もマスメディアも無関心です。勝つためには何をしてもいいというのは、フェア・プレーの精神とは言えず、現在の世の中はこの精神が欠けていると感じられます。フェア・プレーの精神の欠乏は社会の規律を乱しているように思われます。

 

武士道の源

○.武士道は知識を重んじるものではない。重んずるものは行動である。

知行合一

後悔は、自分が失敗したことを悔やむというよりは、行動しなかったことにたいする自己嫌悪であり、思い立ったらまずは行動してみるのが良いように思います。

 

○.義は人の道なり

孟子によれば「義」とは、人が失われた楽園を取り戻すために通らなければならない、真っすぐな狭い道のことである。

「義」とは、簡潔にいえば、不正や卑劣な行動をみずから禁じ、死をも恐れない正義を遂行する精神のことである。
「義」とは、打算や損得のない人間としての正しい道、「正義」のことである。

しかし、「義」を遂行することは、口で言うほど簡単なことではない。
人間の根源的なエネルギーとされる”欲望”をかなり制御しなければ成り立たないからである。「義」よりも「打算」が勝っているのが現代なのである。

「義」(フェア・プレーの精神)が美談として残ったということは、それだけ「あらまほしきこと」だったからである。生きるか死ぬかの場面では、たとえ卑劣者とののしられようとも、勝ちたいと思うが本能であり、いつの時代にあっても本能は美学よりも強く、理想は現実の前に打ち砕かれるのが世の習いである。

具体的な理想をもつともたないとでは、おのずから人の生き方は違ってくる。「正しく生きよう」「美しく生きよう」みずからを律する意志力がなければ、人はけっして美しくも正しくも生きられないのである。武士道はそれをサムライに叩き込んだのである。

「正義の道理」から遠く離れてしまった義理は、現在、驚くべき言葉の誤用を生んでいる。

「義理」は次第に世論が定めた果たすべき義務と、世論が期待する個人的義務感を意味するようになってしまった。

「義理」は「正義の道理」として出発したにもかかわらず、しばしば詭弁のために用いられ、避難されることを恐れる臆病にまで墜ちてしまったのだ。

義務を押しつける行為は大変見苦しいものです。日本の軍国主義や、高度経済成長期の組織上層部は、意識せざる前に義務の乱用があったのではなかったか。そういった行為は「義」へのベクトルの方向がずれているのではなかったか。

武士道が「義」を最高の支柱に置いたということは、そうした至難の「義」を追求することで、為政者として世の平安を維持し、一方ではそこに精神の美学を求めたということである。美学とか美意識とかいわれるものは、現実社会が汚辱にまみれているから求められるものであり、それはある種の「理想の追求」だったともいえる。

現在人は美学とか美意識とかの「理想の追求」が少ないように思われます。追求されているものは「便利差、私利私欲」なのでしょうか。

 

○義を見てせざるは勇なきなり

勇気は、義のために行われるものでなければ、徳の中に数えられる価値はないとされる。

利己的な行為に対する勇気は徳目にはならずということでしょうか。

○.「戦場に飛び込み、討ち死にするのはいともたやすきことにて、身分の賤しき者にもできる。生きるべきときは生き、死ぬべきときに死ぬことこそ、真の勇気である」と水戸義公(水戸光圀)はいった。

自分が正しいことを確信して行動していれば、心の恐怖は軽減され勇気や自信がわいてくるものです。正しい考えで行っていれば後ろめたさはなく、失敗が怖くなくなるかも知れません。失敗を経験として生かし、いつかは克服することができると信じたいものです。

 

○.封建制と専制政治を同一視するのは間違いである。

封建制は武断政治に陥りやすいが、その体制のもとでも最悪の専制政治から人民が救われたのは、この「仁」の精神があったからである。

○.「武士の情け」とは力ある者の慈悲
敗れたる者を慈しみ、おごれる者を挫き、
平和の道を立てること、これぞ汝の業。 ウェルギリウス

○.優しい感情を養うことは、他者の苦しみを慮る思いやりの心を育てるのである。

他人の気持ちを尊重することから生まれる謙虚さや丁寧さこそ、「礼」の根源となるのだ。

 

もし礼が、「品性の良さ」を損なう恐れがあるがためのに行われるのであれば、それは貧弱な徳といわねばならない。なぜならば、礼は他を思いやる心が外へ表れたものでなければならないからだ。

「礼は寛容にして慈悲深く、人を憎まず、自慢せず、高ぶらず、相手を不愉快にさせないばかりか、自己の利益を求めず、憤らず、、恨みを抱かない」

他人を攻撃する行為は「礼」を欠いたものです。ネット社会で匿名にて炎上し、他者を攻撃することは、「礼」を知らない恥ずかし行為そのものです。誰にも見られていなければ、「正義」も「礼」もあったものではない。しかし、誰にも見られていないからこそ、自分の心に偽ざる行為は、後々苦しい重圧としてのしかかってくるものです。自分の行動を誇りと思いたいのならば、一歩下がって自分を見つめてみることです。

 

○.武士の約束に証文はいらない

「武士の一言」

それほどの重みをもった言葉であるだけに、武士の約束は通常、証文なしに決められ、実行された。むしろ証文を書くことは武士の面子が汚されることであった。

畠山重忠は沼田の御厨事件後に因人となり、更に謀反を企てていると梶原景時に讒言されます。景時は謀反が無ければ頼朝公に起請文を書くようにいわれますが、重忠は「心と言葉がちがう者にこそ起請文を要求されるがよい。自分が偽りをいわないことは、頼朝公がかねてより御存知のはずである。」といいきっていました。そこには信頼関係の大切さが語られています。
現在他人とビジネスを追行するためには、契約書は必要ですが、身近な人々との拘わりではお互いの思い遣りがつながりの基本です。中のいい友人と約束するときの、お互いの信頼を、もう一度考え直してみるのも良いかも知れません。

○.なぜ武士は銭勘定を嫌ったか

○.嘘は「心の弱さ」である

嘘も方便という言葉があります。悪意無き嘘も確かにあります。嘘をつくことでその場の雰囲気が和らげられたり、人を助けられたりすることがあります。「心の弱さ」の嘘はそういう嘘とは別の利害判断を伴うものです。

 

名誉

○恥の感覚こそ、純粋な徳の土壌

 

忠義

○.主君への忠誠は「良心の奴隷化」ではない
己の良心を主君の気まぐれや酔狂、あるいは道楽の犠牲にする者には、武士道はきわめて低い評価しかあてえなかった。

最近、忖度という言葉をよく聞きます。

 

武士はどのように教育されたのか

○「富は智恵を妨げる」が武士の信条
武士道は損得勘定を考えず、むしろ貧困を誇るからである。
武士道が倹約の徳を説いたのは事実である。だがそれは経済的な理由からではなく、むしろ節制の訓練のためだった。
贅沢は人間を堕落させる最大の敵と見なされ、生活を簡素化することが武士階級の慣わしであった。

本来のお金は物々交換の代役で、必要以上のお金が有ると人間は欲望の奈落へと欠け落ちてしまいがちです。少子高齢化へと進む現在、お金が全くないのも困りますが、程々に生活に困らない程度と言う考え方があってもよいのではないでしょうか。
「経済至上主義は、子どもたちに心の貧しさをもたらしました」井深大

 

克己

○.克己の理想は心を平静に保つこと
サムライにとってすぐに感情を顔に出すのは男らしくないとされた。「喜怒を色に表さず」というのは立派な人物を評するときに使われる常套句である。そこではもっとも自然な愛情さえも抑制される。
日本人にとって落ち着いた行動、静かな心は、いかなる情熱によっても乱されることがあってはならなかった。

克己は己に勝つこと、心を平穏に保つこと。

克己の鍛錬はときとして度を過ごしやすい。それは魂の潑溂たる流れを抑えつけることもあるし、本来の素直な性質を無理やり、ゆがんだものにすることもありえる。頑固さを生んだり、偽善者を育てたり、愛情を鈍らせることもある。

上記の言葉、ブログ作者の心にズシンとのしかかるものがあります。日本男性の燃え切らない不機嫌な様相はこのあたりにあるのかも知れません。

 

武士道はなお生き続けるか

日本国民がみな一様に礼儀正しいのも武士道の賜物である。

現在の日本人が礼儀正しいことを誇りに思うのであれば、単にマスメディアで取り上げられていることを真似て、「品性の良さ」を損なう恐れがあるがためのに行っているのであれば悲しいことである。他を思いやる「礼」の理念を理解するようにしたいものです。

日本人の欠点や短所もまた、大いに武士道に責任があることも認めなければ、公平さを欠くであろう。
武士道の教育にあたっては形而上学的な思考訓練がおろそかにされていたからである。
日本人の過度に感じやすく、激しやすい性質でも、私たちの名誉心にその責任がある。
「日本人は尊大な自負心をもいっている」という言葉も、こらもまた名誉心の病的な行き過ぎによる結果であるといえる。

最近ネットで「炎上」するとか聞きますが、その炎上する心の内に、そういった日本人の武士道精神の中途半端な正義感とか自負心が、他者を攻撃したりするのではないかと考えたりします。でもそこには他者にたいする慈悲は無く、弱い物をいじめる心理は武士道ではありません。

命をかけた義の実践

名誉が失われたとき、死ぬことは救い
死は不名誉からの確かな隠れ家 ガース

 

武士の魂

○.武士道の究極の理想は平和である

幕末の激動期を駆け抜けた勝海舟はこう述べています。「私は人を殺すのが、大嫌いで、一人でも殺したものはないよ。・・・」

これが艱難と勝利の燃えさかる激動の中で、武士道の教育を受けた者の言葉である。「負けるが勝ち」というものがある。真の勝利は乱暴な敵にむやみに対抗しないという意味だ。また「最善の勝利は血を流さずに得た勝利である」とも言われ、ほかにも類似した格言がある。要するにこれらの格言は、武士道の究極の理想は平和であることを意味している。

 

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仏間の内部 仏間は明治14年以降に増設された部分

現在と武士道

現代の日本を生きるにあたり、武士道は殆ど必要(意味)が無いし、その言葉さえ知らない人が多いのではないでしょうか。経済活動により物資に恵まれた現代の生活環境では便利さが求められ、合理主義や生産性とかが重視されています。人の心の豊かさとかは二の次で、儲けること勝つことが人生の目標であり、それが勝者の所以と思われているようです。そしてそれらを疑うことも無く人々は今の世を当たり前に生活していて、仮に敗者(所謂格差社会の負け組)になってしまった者は、時世や環境・境遇などを恨み、他者を中傷したりしているのかも知れません。ブログ作者はその辺りに現在日本人の心の弱さを感じてしまうのです。

しかし、経済優先の時代にも限りが見え出してきた昨今では、新たな価値を求めて人々は模索し始めているようにも思えます。そんなときにこの「武士道」について改めて考えてみることが一つのヒントとなりそうに思えます。

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板の間の内部 板の間は明治14年以降に増設された部分

武士道そのもは古い封建時代の考え方ですので、現在に生きる私たちには受け入り難いものも確かにあります。しかし現代人が無くしてしまった大切なものが、そこには沢山あるように思います。人と人との繋がり方、正しいことへの誇りと勇気と、無駄をなくした生き方、必要以上の贅沢をしない生き方、心の平穏の持ち方、他者への思いやり慈悲、契約社会以前の信頼、などなどブログ作者が感じたものがありました。

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茶の間の内部 茶の間は江戸後期からのもの

その後の武士道

明治維新によって武士階級はなくなり、おのずと武士道的精神も廃っていったと思われますが、新渡戸稲造は武士道について「いまなお力と美の対象として、私たちの心の中に生きている」と語られています。そして新渡戸の時代から更に現在に至って武士道はどのように受け継がれているのでしょうか。

作家、三島由紀夫は武士道に影響を受けて「葉隠入門」を書いていて、1970年(昭和45年)に割腹自殺を遂げています。この騒動はブログ作者もまだ子供の頃でしたが、それなりに衝撃を受けたのを覚えています。三島の考え方は右翼的なものと考えられていますが、現在でいう右翼とは、まったく違うものだと思います。この三島の行動にはブログ作者にはわからないものがありますが、彼は彼なりに真剣に考えていたものがあって、一般人大衆に訴え掛けていたのだと思います。三島は何が言いたかったのか。そして皆さんはそれをどう思われますか。

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四帖の間 奥には切腹の間が見える

幕末から明治にかけ、山岡鉄舟という人がいました。この人物は江戸無血開城の立役者の一人でもあり、剣・禅・書の達人としても知られ「武士の代名詞」とも称され、勝海舟・高橋泥舟と共に「幕末の三舟」ともいわれています。
西郷隆盛はその人の人間性について「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と賞賛させたともいわれているようです。
この山岡鉄舟は、自らも「武士道」について口述を遺しています。
これからのこの国を支えていく人物として、山岡鉄舟のような心をもった人に期待したいものです。

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床の間の座敷の内部 南に濡縁が付く

『武士道』の翻訳者、岬 龍一郎氏は解説の中で次のように語れています。

現在の荒廃した日本人の現状を見るとき、われわれはこうした国民的な精神といったものを持ち得ているのだろうか。答えは「ノー」である。われわれ日本人がなくしてしまったもっとも大切なものとは、じつはこのバックボーン(道徳規範)たる精神ではなかったのか、と私は思うのである。バックボーンたる精神を捨てれば、それに代わるものとして登場するのは、目に見える物質主義となるのは必然である。いわば戦後の日本が、経済至上主義のもとで効率だけをもとめ、私利私欲のエコノミック・アニマルと化したのも、当然の帰結だったといえる。そして、その結果として、 ”拝金教”のみを信じ、社会人として守るべき公徳心を忘れ、人情をなくし、住みづらい世の中を作ってしまったのだ。

ブログ作者は、岬氏のこういう語らいに、頭が下がる思いです。日々、損得勘定で暮らしていて、他人とは距離を置き、絶対他者を嫌う感情は、人としての根本的に欠けているものがあり、空気を読むとか、忖度するとか、そういう思いで生きていては安らぎは得られないのではないでしょうか。生活していく為にはお金は必要です。ブログ作者もお金は正直欲しいです。でも本当に得たいものはお金の向こう側にあるものです。

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下男部屋 幕末から明治14年に増設

武士道には人間の欲とは離れたものがあります。現在の社会は人間の様々な欲を克服することで成り立っています。ですから経済が優先されることは否定はしませんが、人口減少問題、環境汚染や破壊問題、人種差別問題など経済推進とは違った考え方が必要な時期がきています。そんなとき武士道の持つ他者を思いやる心や倹約の精神を見直すことが必要に思うのです。武士道とは何か、武士道は必要か、皆さんも、ちょっとコーヒーブレイクして考えてみるのは如何でしょうか。

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永島家住宅の門 内部から

武士道などと、生意気な、偉そうなことを書かせて頂きましたが、ブログ作者が自分自身に言い聞かせたいことでありました。また、これを読んでくれた訪問者様が、もし迷われていることがあるようでしたら、武士道は一つの道しるべとなるかも知れません。

人生の格言を書いた書籍は他にも沢山あります。武士道が全てはありませんが、もしご興味を持たれましたら、新渡戸稲造の「武士道」を手に取ってみたください。

 

優しい木漏れ日の中での武家屋敷散策。ボランティアガイドさんへお礼を言い、武士道に思いを馳せ、永島家住宅をあとにしました。


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