竹之下一里塚から馬喰坂・・・1
足柄峠西坂地図 

ここでは竹之下一里塚前から馬喰坂の入口までをご案内します。伊勢宇橋から竹之下一里塚前までの舗装道路は、道幅が広く車でも走りやすい道です。しかし、伊勢宇橋から上の足柄峠までと、竹之下一里塚から麓の御殿場線足柄駅までの舗装道路は道幅は狭く、またカーブも多いので車で走っていても対向車とすれ違うのが大変な道になっています。左の写真は竹之下一里塚です。この一里塚から伊勢宇橋までの間は「大平(おおいひら)」と呼ばれているようで、現在の広い舗装路ができる以前は松並木の古道が続いていたといいます。

竹之下一里塚
ここの一里塚の前に立つ説明版をそのまま引用します。
「一里塚は慶長9年(1604)江戸幕府が日本橋を起点として一里(約4キロ)毎に塚を盛り上げ榎の木を植えたもので道中の里程と旅人達が駕籠かきや馬方との運賃をきめる手段とした。従来は一里が六町(654米)としていたが、三十六町(3928米)に変えた為その周知を目的としたとも云われている。」

「この街道は官道として栄えていたが、元和4年(1618)より箱根路に変ったので、足柄街道とか鎌倉街道と呼ばれるようになった。
昔は松並木が続いていたが戦時中航空燃料として伐採供出されたり道路拡張により昔の面影はない。」

地元の人にこの道は古代足柄路であるのか尋ねてみました。すると古代からの道かどうかはわからないが昔から鎌倉街道と呼んでいたと答えが返ってきました。

足柄峠から下りてきた舗装道路は竹之下一里塚の前で左に折れて麓へと向かいます。一方で一里塚の前からそのまま直進する細い道もあります。その道は舗装はされていますが道幅が狭く車のすれ違いができません。車でこの道を通ることは控えたほうがよろしいかと思います。そしてこの一里塚から直進する狭い舗装路がかっての松並木の古道なのです。

一里塚前から直進で下る道はやがて切通の道となります。切通壁上には「松並木の根」と書かれた説明版も見られ、戦時中に松の根から油をとり航空燃料としたその松の根の堀り残しであるといいます。聞くところによるとこの道は以前はもっと広かったそうです。舗装するにあたり切通部を掘り下げているのかも知れません。

竹之下一里塚から麓へ下る切通道

この切通道は古道の雰囲気が伝わってくる道です。舗装されていなければ素晴らしい切通の道だったことでしょう。しかも松並木が連なっていたということですから、それを失った今としては大変に惜しいことです。一里塚があった道ですから近世の古道であることは間違いなさそうです。

竹之下の一里塚から足柄峠側は、直路ヶ尾ルートが近世の峠越え道であったと思われます。そのルート上には安永3年の馬頭観音像や伊勢宇橋近くには唯念名号碑、題目碑などが連ねています。そして峠の関所跡と呼ばれる前にも一里塚跡が残っています。反対に竹之下一里塚から麓方面は竹之下の宿へ下りて、更に有闘坂を上がっていたと思われ、小山高校の前、竹之下合戦の釜沢近くに次の一里塚が残っています。

また、この街道は近世の矢倉沢往還とも呼ばれていました。ホームページ作者は東京都町田市野津田公園付近に矢倉沢往還の一里塚跡を見ていますが、その野津田公園そばの一里塚跡前の道がこの足柄峠の西坂まで繋がっていたのかと感慨深いものがありました。
この道の切通壁の上に上がってみると道の両側とも整地された広い空間が広がっているのがわかります。そしてところどころに大曲ルートで見た井戸に似た石積壁のある穴が見られるのでした。

この切通道は上の写真のところで、やや大きくカーブしている以外は全体として直線的な道になっています。尾根上を切通で直線的に進む道の姿は鎌倉古道の特徴でもあります。そう考えるとこの道も中世まで遡りそうにも思われるのですが、しかし中世道と考えると何か物足りない感じがします。崩れた切通壁を丹念に観察してみましたが、特別に変わった地層などは見られませんでした。

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