御殿場線足柄駅周辺
足柄峠西坂地図 

左の写真は地蔵堂川に架かる神田橋です。橋を渡って真っ直ぐ進むと向方ルートです。橋を渡って直ぐ右に曲がると地蔵堂川に沿う戦ヶ入林道で伊勢宇橋まで行くことができます。また橋を渡った左側の尾根上を矢台と呼び、その尾根上にも矢台ルートという古道が通っていたといいます。現在その古道はゴルフ場で寸断されてしまっています。ホームページ作者は矢台ルートの道跡があるかも知れないと強引に尾根に上ってみましたが古道跡らしきものはなかなか見つけられず、数度の挑戦でようやく見つけた道跡が下の写真の左側のものでした。

矢台ルートの道跡
矢台から竹之下の集落を望む

矢台
矢台ルートを足柄古道とする資料もみられます。矢台とは竹之下の集落に舌状に張り出した尾根上をいい、御殿場線が開通する以前は線路付近まで尾根が張り出していたといいます。竹之下合戦のときに足利軍がこの尾根から、官軍陣地に目掛けて盛んに矢を射込んだ場所であったことから、矢台と呼ばれるようになったともいわれています。

右の写真は神田橋手前からJR御殿場線足柄駅方面を撮影したものです。この道は富士山を目指して向かっているようです。

大雄山宝鏡寺

宝鏡寺
宝鏡寺の歴史は古く天平年間(740年代)に審祥禅師という僧により建てられたと伝えています。文治元年(1185)に大森氏竹之下孫八左衛門が地蔵尊を迎えて「善光寺」と名付けましたが、建武2年(1335)の竹之下合戦により焼失してしまいました。康永3年(1344)には村人達が力を合わせて現在地に再建され宝鏡寺となったといいます。大永元年(1521)に密堂秀厳禅師によって禅宗(曹洞宗)にあらためられ現在に至っているということです。このように宝鏡寺は数度移転をしていて、寺の歴史は宝鏡寺旧地など足柄古道解明の鍵を握っているのです。

「竹之下の地蔵さま」と呼ばれて親しまれてきた宝鏡寺の本尊は木造地蔵菩薩座像で桧の寄木造り、南北朝期の作であるといいます。この地蔵尊には「一木三体地蔵」という伝説があり、昔御殿場に近い仁杉の諏訪神社の御神木が倒れ、その材で三体の地蔵尊を作ったと伝えています。その一体はここ宝鏡寺の本尊に、他の二体は相模がわの足柄峠への登り口にある足柄地蔵堂と、小田原市板橋地蔵堂のそれぞれの本尊であるといいます。しかし三体とも材や様式が異なるそうで、この話は伝説であるとしながらも、峠の西と東には共通した地蔵信仰が存在したことを物語ります。

本尊の地蔵尊は古くから延命地蔵、子育地蔵、身代地蔵、そば切り地蔵、水子地蔵と変化する霊験を持っているといい、秘仏であり、ご開帳は60年に一度しか行われないそうです。

千束橋
左の写真は御殿場線足柄駅前の踏切から延びる道路が鮎沢川を渡る橋で、千束橋(ちつかばし)といいます。言い伝えによれば、竹之下合戦のときに官軍が退く際に橋を落としたので、足利軍が薪を千束入れて橋の代わりにして渡ったところだといいます。またこの橋の近く(城の腰)で古代足柄路も鮎沢川を渡っていたものと考えられています。峠から下りてきて橋を渡ると、そこは「宿」と呼ばれるところで近世以降の竹之下宿になります。

五輪塔群
右の写真の五輪塔群は、宝鏡寺の南西付近で鮎沢川に架かる橋を渡り、その先の小山高校方面へ上る坂の上り口付近にあるものです。この五輪塔群は地元の人達が付近に散乱していたものをここに集めたものだといいます。五輪塔は様式が様々で、中には宝篋印塔の残欠が混ざるものも見られ、一斉に建立されたものではないことがわかります。集められたものであるが故に、竹之下合戦の戦死者の供養塔も含まれているのではないでしょうか。

『海道記』は、作者が貞応2年(1223)に京都から鎌倉へ旅した紀行文です。この作者は源光行とも鴨長明ともいわれてきましたが、両者とも年代的に一致するものがなく、作者は不明とされています。この作者は足柄山越えで次のような文を書いています。

「今日は足柄を越えて関の下の宿に泊まるべきに、日路に鳥むらがりて、林の頂に鷺ねぐらを争へば、山のこなたに竹の下と云ふ処に泊まる。四方は高き山にて、一河、谷に流れ、嵐おちて枕をたたく、問へばこれ松の音。・・・」

更に
「十六日、竹の下を立ち、林の中を過ぎて遙々行けば、千束の橋を独梁にさし越えて、足柄山に手をたてて登れば、君子、松いつくしくして貴人の風、過ぐる笠をとどめ、客雲、梢に重なりて故山の嶺あらたに高し。・・・」

作者は足柄山を越える前に麓の竹之下に泊まり、そこは四方が山に囲まれていて、一つの河が谷に流れていたといいます。この河は地蔵堂川だとも考えられています。また竹之下を出発した後に千束橋を渡っています。この文中の千束の橋は、現在の千束橋であるのでしょうか、或いはこの『海道記』から現在の橋名がつけられたという説もあるようです。

有闘坂
二つ上の写真は有闘(斗)坂の上り口です。「うとうざか」と読み意味は長く狭い谷の例で、両側が高く切り込んだ道であるとし、いわゆる切通をいうことが多いようです。上の写真は有闘坂の上り口からしばらく上った付近で宿場の風情が感じられるところです。

有闘坂を上っていくと途中で道が二方向に分かれていました。聞くところによると、どちらも昔の街道で直進すると甲州へ向かい、左手に折れると御殿場方面への足柄街道であるといいます。左の写真は御殿場方面へ向かってしばらく上った付近のものです。典型的な切通で古道の雰囲気は十分に伝わってくるところです。特に簡易舗装された現在の細道ではなく、谷へ向かって下りて行く地形は堀割状遺構とも思われます。後で地元の人に聞いたところ、昔は道が谷を下りていたと教えてくれました。

右の写真が谷へ下りて行く堀割地形です。有闘坂は竹之下合戦のときに官軍が大友・佐々木の反乱軍に挟撃され奮戦激闘したところと伝えています。

横山・上横山遺跡
さてこの有闘坂を古代足柄路とみてよいものでしょうか。有闘坂を上ってしばらく進むと現在の足柄街道の舗装道路に出て、その道路の向かい側には小山高校があります。高校の建設に先立って、昭和58年にこの地にある横山遺跡の発掘調査が行われています。遺跡からは7世紀中葉から10世紀中葉に及ぶ竪穴住居や堀立柱建物跡が多数検出されています。また遺跡の西端には井戸沢(小山高校から竹之下宿へ下りる谷)へ向かう道路遺構も検出されています。

更に横山遺跡の隣には昭和55年に発掘調査されている上横山遺跡があり、こちらも8世紀前半の竪穴住居跡に堀立柱建物跡と二条の並行した道路遺構が見つかっています。ここで発見された道路遺構を古代東海道と考える研究者もいるようです。この道路遺構は有闘坂には繋がらないようなのです。

左の写真は上横山遺跡近くの「陣馬」と呼ばれるところです。竹之下合戦で官軍の先手が布陣した場所と伝えられ、そばには道跡とも思われる堀割の地形が確認できます。

右の写真は上横山遺跡の発掘現場で、現在は説明版のみがあり、ここが遺跡であることを教えてくれています。

上横山遺跡からは藤原京や平城京の畿内土器や武蔵・相模・甲斐・東北地方などの土器が発見されていて、それら各地方との関連から交通に拘わる遺跡とも考えられそうです。また横山遺跡からは馬具である金属製の壺鐙なども出土していて、両遺跡は単なる集落遺跡とは異なり、出土遺物や建物遺構の配置などから、地方豪族の館説や官衙に関連した遺跡の可能性などが指摘されています。勿論横走駅との関連も考えられ、今後の調査に興味が持たれるところです。

足柄峠の古道探索ー御殿場線足柄駅周辺 
足柄峠の古道探索  足柄峠西坂地図