向方ルート
足柄峠西坂地図 

左の写真は地蔵堂川の神田橋を麓から渡り振り向いて撮影したもので、遠方には足柄小学校が見られます。ここでご紹介するルートは、この神田橋から沢沿いに上って行く向方ルートと呼ばれるところです。このルートの出発地点である神田橋付近は向方と呼ばれていて、紹介する古道ルートはここの地名から名付けられたものと思われます。ちなみに地蔵堂川の神田橋の対岸付近は「古地蔵」と呼ばれていて宝鏡寺旧地であったといわれています。

天正10年(1582)に小田原城主北条氏直が足柄城に送った掟書『足柄当番之事』の中に、「足柄城の小(古)足柄口と猪鼻口を共に閉鎖して、大手法教寺口のみ通行させる」という内容の記事があります。これは小田原北条氏が織田信長・徳川家康の軍勢がせまる危機の中で出されたもので、ここでいう大手法教寺口とは、竹之下の宝鏡寺旧地へ向かうルートではないかと考えられています。つまり戦国時代末期には足柄峠から西側へ下りるルートとして、現在の地蔵堂川神田橋付近へ下るルートのみが使用許可されていたと推測できるのです。

地蔵堂川の神田橋からの向方ルートは、写真のようにしっかりした道なので安心して歩いていけるように思われることでしょう。しかし、この沢沿いの道は途中で行き止まりになります。かっては古道であったといいますから、足柄峠までは昇れたはずなのですが、現在は途中から道がありません。正確にいうと沢沿いの上部では金太郎富士見ラインに出るまでの区間、わずかに道跡があるののみで、そこは大変わかりずらく、また沢の中を歩いたりしないと通過できない危険な場所です。道なき沢登りの経験者以外は絶対に上らないでください。事故があってもホームページ作者は責任をとれません。一般の方は引き戻す覚悟で入って行ってください。

向方ルートには畑地も所々に見られます

大正時代の古い地形図を見ると、竹之下からこの向方ルートを遡り、現在の金太郎富士見ラインの舗装道路が通る尾根を跨ぎ、更に大沢へ出てから峠に向かうルートが描かれています。そのルートは現在の足柄峠を通らずに、通り尾砦跡近くの鞍部を越えて東側の麓へ下る道になっています。その道は明治期に陸軍工兵隊が敷設した道であるといいます。現在ではその殆どが廃道になっていて、そのルートを辿ることはできません。

左の写真は道脇に見られた二基の馬頭観音石塔です。明治期のものなので、古代道や中世古道を予感させるものではありません。ホームページ作者はこのルートで石仏類を見たのはこの馬頭観音だけでした。明治期のものとはいえ、馬頭観音があるということは、この道が峠まで続いていたことを物語るものです。

足柄の遊女と古曲『足柄』
しばらく古道探索から離れて、足柄山の遊女と幻の古曲『足柄』について触れてみたいと思います。

『更級日記』の足柄山についての一部を引用します。

麓にやどりたるに、月もなく暗き夜の、闇にまどふやうなるに、あそび三人、いづくよりともなくいで来たり。五十ばかりなる一人、二十ばかりなる、十四五なるとあり。庵の前にからかさをささせてすゑたり。をのこども、火をともして見れば、昔こはたと言ひけむが孫といふ、髪いと長く、額いとよくかかりて、色白く、きたなげなくて、「さてもありぬべき下仕などにてもありぬべし」など、人々あはれがるに、声すべて似るものなく、空にすみのぼりてめでたく歌をうたふ。人々いみじうあはれがりて、けぢかくて人々もて興ずるに、「西国のあそびはえかからじ」などいふを聞きて、「なにはわたりにくらぶれば」と、めでたく歌ひたり。見る目のいときたなげなきに、声さへ似るものなく歌ひて、さばかり恐ろしげなる山中にたちてゆくを、人々あかず思ひてみな泣くを、幼なき心地には、ましてこの宿りをたたむことさへ、あかずおぼゆ。

麓に宿をとったところが、月もない暗い夜で、闇に迷うようなありさまでした。そこへ遊女が三人どこからともなく現れ、ひとりは五十くらいで、ほかに二十くらいの人と十四五の人でした。

庵の前に、からかさを差して座らせました。供の男達が火をともして見ますと、昔、「こはた」と呼ばれた遊女の孫にあたるといいます。髪はたいそう長く、額髪も美しく顔にかかり、色白で、こざっぱりしているのです。「これなら相当な下仕えとしても見劣りしないだろう」などと皆で感心していると、声もまたくらべるものがないほど美しく、空に澄みのぼるように上手に歌うのでした。

人々は感動して、そばに呼んで話などを交わしているとき、「本場の西国の遊女でも、これほどのものはいないだろう」というのを聞き、「西国の、難波辺りの人達にくらべますならば」といい、即興の曲をきっちりと歌って見せるのでした。

見た目がこぎれいな姿や態度と、声まで美しく歌いおえて、恐ろしげな山中に立って行くのを見送り、人々は皆、名残惜しく思い涙ぐんでいました。私の幼な心にはなおさら悲しく、この宿を立ち去ることが残念に思われたのでした。

恐ろしげな足柄山とは対照的に闇の中から現れた遊女の美しさとあわれさは、幼なかった日記の作者には特別な印象深きものとして心に映ったのでしょう。ホームページの作者は『更級日記』を当初は古道研究の資料(地理的に信用しがたい部分も多いのですが)程度にしか読んでいませんでしたが、ある時期から日記の作者の心の繊細さに惹かれるようになりました。この足柄山の遊女の話は日記全体の中でも作者のやさしくせつない心境が覗かれるところです。

『更級日記』は菅原孝標の娘が晩年に、みずからの人生をたどり書き記したものです。前半の旅行記と、物語に夢見る少女期、平穏な生活と宮仕での出来事、寺社参りの事、そして夫の死と不幸な晩年へとつづられています。最後に作者は
「月もいでて闇にくれたる姥捨になにとて今宵たずね来つらむ」
とみずらを姥捨にたとえています。物語や歌などに熱中し、信心をおろそかにしたため不幸な晩年を迎えるに至ってしまったと回想し、作者のそのような人生観が更級日記の主題です。

そのように言ってしまうと、何だか「更級日記」というものは50歳を過ぎたお婆さんが綴った、暗い人生のようにも思えてしまいますが、それが不思議に呼んでいて地味ながらも、キラッと輝くものがところどころに見られるのは、作者が自分の人生を悲観的に捉えてはいないと思わせるものがあるのです。

千年の時間を越えて作者が語りかけてくるものは、現代人にも共感できるものが多くあります。世の中の生活は変わっても人の心の中心にあるものは、平安時代の人と現代人とはほとんど変わっていないのではと思うところがあります。興味を持たれた方は一読することをお勧めします。

そんな「更級日記」ですが、平安時代の紀行文献が、大変に少ないことから歴史地理学の参考資料として取り上げられることが多いのです。しかし、地理的な立場から、明らかにおかしな記述も見られ、一般に女性は男性よりも地理感が乏しいと言われるのが、なるほどと思わせるのです。古典文学に関しては、なにも「更級日記」の作者だけに限ったことでもないようなのですが・・・。

さて、日記の作者が麓の宿で遊女に出会ったというのは、現在の足柄山のどこになるのでしょうか。正確にはわかっていませんが、東麓の地蔵堂の集落がその場所とする説が有力です。その場所は文献などにも見られる「足柄の坂本」でもあるといいます。鎌倉時代の『海道記』では「馬返し」というところが出てきますが、この「馬返し」は、かっての「坂本」ではないかと言う説もあります。ここで面白い話があります。『海道記』ではこの「馬返し」からが相模の国であると書かれています。

一方で『更級日記』では足柄山をかろうじて越えて関山に留まったとあり、その関山からが駿河の国であると書かれています。関山の場所は、これも現在でははっきりとはわかっていませんが、足柄山の西麓の竹之下を過ぎた丘陵上(横山・上横山遺跡の辺りか?)とする説もあります。この二つの記事から古代〜中世初期の国境とは現在のように山稜等で区画されたものではなく、山全体の広い帯のようなもので、どちらの国にも属さない空間が存在したようなのです。現在では国境とは此処までという線状ですが、昔はその境がはっきりしたものではなかったようなのです。更に分析すると、この空間とは神の領域というものであったのかも知れません。

上の写真は向方リートにある現在の道が消えるところです。山崩れで道がふさがれ、利用頻度の少ないこの道はそのままにされていたかのようです。右の写真は上の写真の場所から振り向いて撮影したものです。写真ではわかりずらいのですが遠方には富士山があります。一般の方はここから上へは上がれませんので引き返してください。

さて、『更級日記』の作者が足柄山で出会ったという遊女は「こはた(木幡)」と呼ばれた有名な遊女の孫(三人のうちの二十くらいの人が、こはたの孫であると予想される)であるというのですが、この遊女達はいったい何者なのでしょうか。

「本場の西国の遊女でも、これほどのものはいないだろう」というのを聞き、即興の曲をきっちりと歌って見せたというのですから、彼女らは本場西国仕込みの洗練された遊女であったことが想像できます。

ここで再び『海道記』の一文を引用します。
「昔、青墓の宿の君女、この山を越えける時、山神、翁に化して歌を教えたりけり。あしがらと云ふはこれなり。」

昔、美濃の国の青墓宿の遊女が、足柄山を越えるときに、足柄明神は翁の姿で現れ、その遊女に神曲『足柄』を教えたとあります。『更級日記』の作者の前に現れたという「こはた」の孫を名のる遊女。その「こはた」とは、あるいは美濃国青墓の遊女であったかもしれないと想像が膨らみます。

ホームページの作者は古典文学とか雅楽などは苦手な分野で、日本史が好きであるとはいえ、このあたりの説明はいつも苦労しています。古曲『足柄』は現在では、わすれられた幻の神歌であるそうです。「梁塵秘抄口伝集」に『足柄』とは今様の一種目、最も古典的な大曲とあります。宮内庁雅楽部に伝存する『東遊』は『足柄』の一部であるといいます。

『更級日記』の足柄山の遊女の話から、糸をたぐって行くと、今では滅んでしまった古曲『足柄が』の片鱗が見える思いがしました。足柄山の遊女は足柄明神の神歌と無縁ではないのかも知れません。

いよいよ向方ルートも道がなくなり、どう進んだらよいものかと思案して、思いきって沢の対岸に出てみましたが、道跡らしきものは見られず、山の傾斜はよりいっそうにきついようです。これではどうにも進むことができません。そこで一旦、沢底に下り、そのまま沢を遡行して行くと何とか人が歩けそうなところが沢岸に見られます。そこへ上がってみると左の写真のような道跡らしきところだったのです。観察するとやはり道跡のようです。沢側は土塁状になっていて木が生えています。一方の山側は崩れてきた土砂でしょうか、道跡と思われる窪地の沢側の土塁前まで覆い被さっているようです。

この道跡らしき窪地も直に終わり、行く手を山の壁がさえぎっています。もうここまでかと引き返そうとしたときです。直ぐ上を車が通っていくのです。この壁さへ上れれば、そこはおそらく金太郎富士見ラインのはずです。私は落ちても比較的に安全そうな場所を選び壁にとりつきました。そしてついに舗装道路へ上がることができたのです。上がったところは遊女の滝へ向かう大沢林道との接続する場所でした。やれやれ、私が苦労して上ったところは向方ルートでよかったのか?。このルートは沢伝いの道なので昔の古道の雰囲気はあまり感じられなく、古代官道のルートと考えるのは難しいように思われました。

足柄峠の古道探索ー向方ルート 
足柄峠の古道探索  足柄峠西坂地図