地蔵堂川源流ルート
足柄峠西坂地図 

足柄峠の笛吹石の左手付近から谷へ下りて行く細道があります。左の写真がその道で、道の中央部には石畳が敷かれています。足柄峠から麓の竹之下までの古道ルートは幾筋もありますが、ここで紹介するルートは地蔵堂川を川伝いに遡るルートで地蔵堂川源流ルートと呼びます。途中で直路ヶ尾ルートと合流しますが、伊勢宇橋からは再び地蔵堂川に沿って竹之下へと下っていたと思われます。紹介するのは笛吹石の脇から下りて行き、峠から麓へ下る舗装道路と合流するまでの短い区間です。

細道を下り始めると直に、細道に沿うような堀割地形が右手に続いているのが見られます。この堀割は城郭遺構なのか道跡なのかはわかりませんが、いずれにしろ人工的に造られたものである可能性は高いと思います。足柄城から金時山へ向かう道の途中に猪鼻砦というのがあり、笛吹石の近くの尾根や谷には城郭に関連した遺構が多く見られるのです。

このルートの石畳自体は古いものとは思われませんが、石畳が敷かれていることでこの道が一時期にはそれなりの通行量があったものと考えられるのです。左の写真のところの少し先で、道は右手に折れて進み、その辺りからこの道が沢筋を辿る道であることを実感できます。下の写真では路面に石畳ではなくコンクリートが敷かれていたことがわかります。

コンクリート敷きが残る道

ここで古代の「足柄」に拘わる資料を紹介します。

最も古い文献として『古事記』にはヤマトタケルが足柄の坂を越えるときに、白鹿に化けた足柄明神に行く手を阻まれる話があります。ヤマトタケルは食事中だったので残りの蒜の片端を打ちつけると鹿の目にあたって死んだといいます。そこでヤマトタケルは「あずまはや」と三回、歎声し、その国から甲斐の酒折宮へ出たといいます。

この『古事記』の文面は素人のホームページ作者には意味がさっぱりわかりませんでした。そこで参考文献などの資料で調べてみますと、3つの事柄が浮かび上がってきました。
1つ目は、足柄坂が神の御坂で、古代人は御坂を越えるためには神に祈りを捧げる手向けを行う必要があったといいます。またその神が邪悪な神の場合は魔を避けるまじないを行って神に打ち克つ必要もあったようです。ヤマトタケルは後者の方法で足柄の御坂を越えています。東夷の帰路で東の国の神である足柄明神はタケルの通行を阻止したためと考えられているのです。

以前は歩かれていた雰囲気が見られる沢道

二つ目は、「あずまはや」と三回、歎声したというところで、原文では「阿豆麻波夜」と書くようです。『日本書記』にはヤマトタケルは足柄坂ではなく碓井坂(上信国境)を越えていて「吾嬬者耶」と歎声しています。そしてこの歎声を書記では弟橘媛を偲んで叫んだものだといっています。『古事記』と『日本書紀』の詳しい相違や比較はここでは語りませんが、足柄坂や碓井坂は中央からみて東国の入口であったことがわかります。『古事記』では「あずまはや」を鹿の目に当たった「当つ・目・はや!」だとする説もありますが、続けて「その国をなづけて阿豆麻と謂ふ」とあり、東国の地をその当時から「あずま」と呼んでいたことがわかるのです。

三つ目は、東海道の路線と考えられてきた足柄坂ですが、ヤマトタケルはその後は甲斐国へ向かっているということです。中世にも足柄峠は坂東から甲斐国へ向かう鎌倉往還の主要ルートであったとも伝えます。これらの事柄は足柄越えが東海道の幹線路であるとともに坂東から甲斐国へ向かうルートとしても重要な位置にあったと考えられるのです。

以上『古事記』のヤマトタケルの足柄越えから、神の御坂としての足柄のこと、足柄から東は「あづま」と呼ばれていたこと、足柄路は甲斐国へのルートとしても大きな役割を果たしていたこと、の三つが見えるのでした。

足柄は古代から中世にかけての文献に多く登場します。『万葉集』には足柄や箱根を歌った作品が十数首あるといいます。その後の和歌の隆盛に伴い「足柄」「関」「八重山」などが歌枕として盛んに登場しています。このように「足柄」という地名が古文学に多く登場し、古人には良く知られていたことは、この峠がいつの時代にも重要な国境であったということを教えてくれているものなのです。

ここで『万葉集』の足柄を歌った代表的な一首を紹介します。

巻9-1800
足柄の坂を過ぎて死れる人を見て作る歌一首
小垣内の 麻を引き干し 妹なねが 作り着せけむ 白たへの 紐をも解かず 一重結ふ 帯を三重結ひ 苦しきに 仕へ奉りて 今だにも 国に罷りて 父母も 妻をも見むと 思ひつつ 行きけむ君は 鶏が鳴く 東の国の 恐きや 神の御坂に 和たへの 衣寒らに ぬばたまの 髪は乱れて 国問へど 国をも告らず 家問へど 家をも言はず ますらをの 行のまにまに 此処に臥せる       田辺福麻呂

この歌は長歌形式の挽歌で「行路死人歌」といわれるものです。歌の作者は「田辺福麻呂(たなべのさきまろ)」と名のる人物で、造酒司令史(さけのつかささかん)という酒や酢の醸造と提供等を行う官職で、低い官位の者であったようです。作者は何らかの目的で東国に赴き、足柄の坂を通過する途中で行き倒れの死人と遭遇しました。その彼は、神います足柄の坂でそのまま通り過ぎることはできなかったのです。そして旅先にあって死んだ人の長歌を残したのでした。(この長歌は反歌がなく、『万葉集』中で反歌のない長歌はこの歌のみあるそうです)

垣根の内に植えた麻を引き抜いて干し、いとしい妻が布に織ってくれた衣の紐も解かず、体に一廻りの帯が三廻りになるほど奉公で痩せ細りした君は、今やっと故郷へ帰って父母にそして妻に逢おうとしているのに、東国の入口である恐ろしい神の御坂で倒れてしまっている。柔らかな衣も寒々とし、黒髪も乱れて、国はどこかと尋ねても国の名をいわず、家はどこかと尋ねても家のありかをいわず、なんとも大夫が旅路の果てにここでふせているのです。

さて、地蔵堂川源流ルートの話に戻ります。このルートは近年まで使用された痕跡が見られ、谷道としては歩きやすい道として残っています。このルートが古代官道であったかどうかはわかりませんが、事例としては、古い道は尾根上を通ることが多く、谷道は古代官道としてふさわしくないとする研究者も多いようです。ただ足柄峠へ地蔵堂川を遡るこのルートは、特別な難所もなく比較的短距離で上れるので、官道の別ルートとした道が存在した可能性も考えられると思えるのです。

足柄峠の古道探索ー地蔵堂川源流ルート 
足柄峠の古道探索  足柄峠西坂地図